PHILOSOPHY OF TECHNOLOGY

技術哲学 第8回(最終回)
私たちは、いかに「生きる」ということをつくることができるのか──技術の根源的問題と正面から向き合うために

まとめレポート(講義動画 2時間16分06秒より作成)

講座
makers Unlearn 2026(mU)
講師
七沢智樹(Technel合同会社/山梨県立大学 特任教授)/原島大輔(立教大学現代心理学部 映像身体学科)
開催日
2026年9月14日(月)

OVERVIEW概要

全8回の最終回は、第1回と同じく七沢智樹と原島大輔の2人が登壇。7回分の講義をひとつの場所へ束ね直し、この講座が初めから向かっていた到達点——惑星的普遍技術と惑星的普遍倫理——を、それぞれが正面から提示する総括の回となった。

前半の七沢パートは「種明かし」から始まる。第1回の原島の問い(哲学の終わり・普遍《倫理》の忘却)も、七沢の5つの問い(技術とは何か……)も、7人の講師の講義も、実はすべて今夜の話への伏線だった。惑星的普遍技術とは、過去の技術の上に、未来に成立するもの。火を焚く・石を打つ・編む・発酵させるといった「技術の基層」の普遍性の上に、テクノロジーの普遍《論理》が乗り、その内側から相転移のように立ち上がる新たな普遍技術の可能性——それはテクノロジーの中で「異なる身体」を獲得することで育まれる。眠っている技術を掘り出すことは新しい技術の開発と同じ価値がある(車輪の再発明でよい)という技術史観、テックキャンプで数時間のうちに躍動し始めた学生たちの姿、家で使い続けている手づくりのたわしの話を経て、「テクノロジーを、内側から破る」という実践の循環にまで届く。

後半の原島パートは、惑星的普遍倫理を「テクノロジーの終わりと技術の課題」と言い換えるところから始まる。資本主義の終わりより想像しがたいテクノロジーの終わり、まだ存在しない「惑星共同体」、そして——哲学が《おどろき》から始まったのなら、テクノロジー以後の新たな技術哲学は《かなしみ》から始まる。ハイデガー、レビナス、デリダ、バトラーへと連なる系譜をたどりながら、「悲嘆可能性の惑星化」という明確な指針が提示された。締めくくりに七沢が応じる——惑星的普遍技術によって、惑星的普遍倫理が実現する。倫理を可能にするのは感性であり身体であり、それは異なる技術実践からしか来ない。mUがこれから問い続ける「つくる」の指針が示された最終回である。

タイムスタンプは講義アーカイブ動画の再生位置です。スクリーンショットは講義スライドの引用(©七沢智樹・原島大輔)。ブレイクアウトルーム部分はアーカイブでは省略しています。受講生の氏名・発言は特定できない形に編集しています。

CONTENTS講義の内容

1. 導入──mUの4つのSTEPと、オープニング・シェア0:00–4:39

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1:07最終回のタイトルスライド。「私たちは、いかに『生きる』ということをつくることができるのか」。

「MUの技術哲学、最終講義を始めていきたいと思います」。冒頭で七沢は、今夜が2回のブレイクアウトを交えた2人での進行になることを告げ(実際には熱量があふれて後半のブレイクアウトは時間切れとなる)、mUの根本の問い——知性すらコモディティ化する世界で、私たちは何を創るのか——と4つのSTEP(未来を見通す→根源に遡る→再定義する→未開の未来)を再確認。技術哲学はSTEP 2「根源に遡る」の入口として、「つくる」の哲学からの解体を担ってきた。そのうえで冒頭のブレイクアウトへ——ここまでの7回で何を学び、どんな気づきがあったかのシェアである。アーカイブでは省略しているが、視聴中のあなたも、ここで一度動画を止めて書き出してみてほしい(講義中、七沢からアーカイブ視聴者へ向けて同じ呼びかけがあった)。

2. 種明かし──この講座はどこへ向かっていたのか4:39–13:51

ルームから戻ると、いよいよ「今夜の種明かし」。第1回の問いも、5つのワークも、6人の講師の講義も、実はひとつの場所に向かっていた——それが惑星的普遍技術と惑星的普遍倫理の話である。折しもこの日、AGIの脅威をめぐって著名テック企業のトップたちが「開発を止めよう」と声を上げたニュースに、2人の哲学者が対照的なコメントを寄せていた。同じテクノロジー=普遍《論理》に対して、価値の捉え方がまったく違う。なぜ違うのか——背景にある神話・世界観が違うからだ。ここに最終課題の伏線も置かれた。

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5:42原島の問いを2つに研ぎ直す——①哲学が終わったのなら、それでも技術哲学に何ができるのか。②忘却された普遍《倫理》をどう取り戻すのか。

講義振り返りでは、第1回の原島の問いが2つに整理される。そして七沢の5つの問いの正体が明かされる——「テクノロジーと技術は違うのか」はテクノロジーを技術のわずか5世代の表層として相対化する問いであり、「技術を使うのは人間だけか」は技術の基層への入口であり、「技術は何が生み出すのか」は環境が引き出すという捉え直しだった。テクノロジーが普遍的なのではなく、その底にあるものに普遍性があるのではないか。

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8:105つの問いは、実は惑星的普遍技術に向かう問いだった——「第1回に書いた問い→向かっていた先」の対応表。

今夜の中心の問いは「普遍性のアンラーン」。普遍性といえば、世界を普遍的に説明する原理(ロゴス)という西洋近代的なものを思い浮かべてきた。それをアンラーンし、たとえば「生命に普遍的に見られる行為」としての普遍性へ捉え直せないか。地球規模で行為する動物種となってしまったサピエンスは、この惑星にとって普遍的なものを追求しなければ、もはや自らの行為が成立しない——戦争を超えるための普遍性である。この観点から6人の講義が「惑星的普遍技術の可能性の示唆」(直江のテクニック/テクノロジーの区別、岡田のポイエーシス、村田×染谷の循環する技術)と「惑星的普遍倫理の可能性の示唆」(直江の低い陸橋、大家の道徳的主体化、伊勢×染谷のメニュー化への抵抗と多様性)として振り返られた。

3. 惑星的普遍技術とは──技術の基層・原初のサイボーグ・野生のサイバネティクス13:51–33:00

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18:09惑星的普遍技術とは——技術の基層の上にテクノロジーが分岐し、その内側から相転移のように立ち上がる。「過去の技術の上に、未来に成立するもの(七沢の主張)」。

ここからが本題。技術の基層とは、火・石器・編む・発酵・料理といった、私たちが生きるために必要としてきた技術の層である。サピエンスはずっとこの基層を使って生きてきたし、その多くは他の動物種とも共有されている。火の料理は消化の外化であり、巣の技術は住まいの普遍であり、毛皮は衣の内蔵版である。動物が身体の内側に持つ技術を、人間は取り外し可能な道具として作り直してきた。サイレンで危機を伝える消防車と、人の気配に鳴く鹿や鳥——私たちがいま発揮している技術の多くは、他の動物たちと同じタイプの技術なのだ。ここに普遍技術の可能性が見えてくる。

惑星的普遍技術は「七沢の主張」であり、現在執筆中の本の内容だという。要点は「過去の技術の上に、未来に成立する」——ただ過去に遡るのではなく、それを未来において実現する。そのための3つのステップが、①技術の基層に気づく、②原初のサイボーグを知る、③野生のサイバネティクスを実現する、である。

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24:20技術の基層——蔓・ヤドカリ・鳥・シロアリ・菌糸、そしてヒト。環境に働きかけているのは人間だけではない。

①技術の基層に気づく。蔓は他者の幹を足場にして光へ届き、ヤドカリは他者の殻を住居に変え、鳥は巣を編み、シロアリは空調の効いた塔を建て、菌糸は土の中に流通のネットワークを張る。イノシシを「あいつら」と呼ぶ猟師は、人間と動物が同等に技術を発揮しているという視点をすでに持っている。人間中心主義は西洋的思考に特有のものであり(『WEIRD』)、モア・ザン・ヒューマンの視点からすれば、技術とは生きとし生けるものが環境に応じることで生じるはたらきであり、人間の技術はその長い連続の一つの現れ——そこに断絶はない。

②原初のサイボーグを知る。ただし人間は少し異なる技術の発揮の仕方をする。猿もカラスも道具を使うが、世代を超えて道具を継承しない。道具は「私であり、私でないもの」——内でもあり外でもあるという絶対矛盾的自己同一のあり方を、人間は200万年前の石斧の時代からしてきた。道具が流通し共有物として機能するには言語(記号)が必要であり、道具の発達と言語の発達は相互に作用してきた。24歳でヘッドライトも持たずに西表島のジャングルへ入った七沢は、台風で撤退した先で、3メートル四方を整えて暮らす「ジャングルの住人」に出会う。人間はミニマムな人工空間を必要とする——動物のように裸一貫では自然の中で暮らせない。しかも本当に必要な道具は驚くほど少ない。意外となくてもいい技術で世界はできていて、私たちはメニューに並べられた商品を消費させられているだけかもしれない。そして80億人が生きる現代では、80億人が成立するための最低限の技術という問いが、惑星的普遍技術の核心になる。

③野生のサイバネティクスを実現する。サイバネティクスとは本来、ウィーナーが自然や生命のような予測不可能な対象を予測・制御可能にするために生んだ科学だが、現代では「機械がすべてを予測可能にしていく」という機械中心の意味に転じている。しかし本来は生命が技術を使って生きるということを実現するための科学——ある生物にとっての意味=価値を扱うもの——として置き換え直せる(原島の論文「こころのサイバネティクス」)。機械的な再帰性を「生命という根拠ないし地」に添付し直すこと(ユク・ホイの一般器官学)。自然と都市の往復——テクノロジーの引き算と足し算——の中で、ちょうどよい技術のあり方が見えてくる。ただしこれは観念的には実現不可能で、実践しなければ何の意味も持たない。「今日の話を聞いただけでは、まったく意味がないですね。動かないと」。

4. どこまで遡るか・技術の分岐──眠っている技術を掘り出す33:00–42:30

では過去のどこまで遡るのか。よく里山に遡られるが、里山は封建制度・荘園制度の上に成立したものだ。用水路の水利は村人の意思疎通と権力関係を生み、単一作物ゆえに共同体の規範を要求する——メソポタミア以降の「管理される技術」「権力構造を前提とした技術」が里山にはバリバリにある。近代的な意味での自由はない。個人・自由・自立という「甘い蜜」を吸ってしまった私たちがつくる惑星的普遍技術は、里山にはない。狩猟採集は戦争がなくダンバー数150名以下の平和な暮らしだが、資源を食い尽くす生活様式であり戻れない。だからサピエンス誕生——道具の誕生でヒトが他の動物と異なる特性を発揮するようになった地点——まで下げる。そこに答えがあるからではなく、遡った分だけ、投影できる未来の角度が最大化するからである。

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39:35技術の分岐——単線の進歩史から枝分かれする「掘り起こされていない枝=眠っている技術」。

実際の技術史は一本線ではなく、チンパンジーの技術から旧人の技術まで、分岐と傍流と絶滅に満ちている。しかもケビン・ケリーが『テクニウム』で書いたように、過去に発明された技術のほとんどすべては、現代もなお地球上のどこかで使われている。多くの技術は失われず、どこかに眠っていて、すぐにでも復活させられる——焚き火とふいごで鉄筋を叩けばナイフが作れると気づいたとき、それは車輪の再発明にも至らない体験なのに、まるで発明したような驚きとともに、鉄・塩・紐の作り方が身体の中に呼び起こされる。その気づきが日々の生活を変え、出来上がったテクノロジーを相対化する力になる。眠っている技術を掘り起こすことは、新しい技術を開発することと同じように価値がある。この視点は、この週の木曜から始まる「技術史」講義(国立科学博物館の科学技術史グループリーダーと共同で「技術史そのものを編み直す」試み)への招待でもある。

5. 異なる身体──テックキャンプ・たわし・テクノロジーを内側から破る42:30–61:05

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43:00異なる身体——都市に飼いならされた身体から、自然に応答する身体へ。フィールド講義の核心。

そのための場が、mUのフィールド講義である。キーワードは「異なる身体」——メニューから選ぶ身体ではなく、環境に引き出されて思わぬ、しかしとても自然な働きを起こす身体。前週の山梨の森でのテックキャンプでは、トイレも風呂もない森を前に事前講義では暗い顔をしていた10代の学生たちが、到着から3時間後には竹を割り、箸のはずがストローを作り出し、火吹き棒にして火を吹き、小さな斧で木を加工してお玉を彫り出していた。「本人もびっくり、こちらもびっくり」。身体がまだ都市に飼いならされていないのだ。一方で「出来上がった大人」は環境からの呼びかけ——アフォーダンス——に応じられない身体になっていることがある。それでも4泊5日ほどで崩れて変わり始める。脳の可塑性は、年齢を重ねても失われない。異なる環境に放り込まれることで身体から変える——身体(無意識)が思考を生んでいる以上、身体から変えるしかない。

その象徴が、たわしである。西表島のジャングルで仲間と工夫してつくり出したシュロのたわしとまったく同じものが、八重山地方で過去に使われていた。身体が、同じ答えにたどり着く。しかもそのたわしは市販のどのたわしより使いやすく、いまも七沢家の現役である——重要なのは、その形のたわしが売っていないということ。薪ストーブの灰で油を落とす暮らしの知恵とともに、眠っていた技術が生活の中に復活している。

ただし、これはロマン主義ではない。「私たちはマジで個人・自由・自立を手放せません。里山暮らし、嫌です。江戸時代の暮らしなんか絶対嫌です」——戻るは最初から選択肢にない。先住民の暮らしへの態度は賛美ではなくリスペクトであり、その世界の中で住んだら違う。そして近代を批判しながらその恩恵を謳歌する態度への痛烈な批判——「私たちはそれを享受しているんです。その内側から超えないといけない」。近代的な意識・自律性を持ったまま原初の実践を続けたらどうなるのか、まだ誰も知らない。そこにこそ異なる未来の可能性がある。

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53:55テクノロジーを、内側から破る——異なる身体→AI・テクノロジー→生態系→生命・サピエンスの循環。

そして「テクノロジーを内側から破る」。AIを使う身体が異なるならば、AIから引き出される機能も異なるはずだ。いまのAIは近代的人間にチューニングされて表に出てきているが、自然のアフォーダンスに応じられる身体であれば、テクノロジー環境から思いもしない機能——自然と共に生きるために必要な機能——を引き出せる可能性がある。それはAIやテクノロジーが自然の生態系をより豊かにするために働くことを意味する。「美しい話」で終わらせないためには異なる身体が要る。私たちはどれだけテクノロジーを使っていても、この地球上に生きる生命の一つであることをやめられない。生態系を豊かにすることこそがサピエンスの繁栄の大前提であり、異なる身体の獲得→AI・テクノロジーからの異なる引き出し→生態系の豊かさ→生命の繁栄→さらなる身体の発揮、という循環を起こすべきだ——先駆的事例として、多種の種を撒き生態系ごと立ち上げる協生農法・拡張生態系の実践も紹介された。

6. 答えは、常にメニューになる──最終課題のちら見せ61:05–65:55

原島パートを前に、七沢はワークと最終課題を「ちら見せ」する。改めて5つの問いに応答してほしい——ただし、答えは常にメニューになってしまう。今夜の「惑星的普遍技術」さえ、理解したつもりの選択肢の一つになりうる。だからメニューの外をつくり“続ける”ことが重要であり、それがAI時代の生きる技芸である。最終課題(テクノロジーが引き起こしている問題の整理→それを形作る思想・神話・世界観の整理→自分の実践→その実践は本当に力になるのかの自己分析)は、講義後に正式版が案内される。「すぐに答えない方がいい、というぐらい大きい問いとして、3月までに深めて応答してほしい」。

7. 原島パート①──テクノロジーの終わりと技術の課題1:05:55–1:21:36

「皆さんお久しぶりです。第1回ぶりですかね」。原島は惑星的普遍倫理を、まず「テクノロジーの終わりと技術の課題」と言い換える。かつてジェイムソンやフィッシャーは「資本主義の終わりを想像するより、世界の終わりを想像する方が簡単だ」と言った。ところがバルファキスによれば、資本主義はすでに終わっている——いまはテック企業のデジタル領地で人々が農奴のようにデータを産出するテクノ封建制の時代だと。もしテクノロジーが「終わらないはずの資本主義」を終わらせてしまったのだとしたら、テクノロジーの終わりを想像することは、資本主義の終わりを想像するよりさらに難しい。しかしその想像しがたいテクノロジーこそが、現代の惑星文明の条件になっている。大地に根差すのではなく、大地を資源として離陸した宇宙船地球号——テクノロジーに依存した文明は、いま人道危機と環境危機に直面している。

では技術の課題とは何か。テクノロジーが西洋形而上学を終わらせた(完成させた)以上、これからの思考はポストヨーロッパ哲学の課題に取り組むしかない。そのうえで原島は技術の定義を一つ提案する——技術とは、生き物がそれぞれの環世界(その生き物にとっての経験世界・身体性)を作る技である。生きるということそのものが、根源的には技術の原初である。ならば問いはこうなる。私たちが惑星的に共に生きられるような環世界・主観性・身体性を、どうやって作るのか。それが惑星的普遍倫理のもとでの技術の課題である。ここで重要なのは、惑星共同体はまだ存在していないということ。同じテクノロジーを使い、なし崩し的に一つの文明に詰め込まれているだけで、価値観や倫理を共有してはいない。しかも私たちは互いに——人間同士も、人間以外の生き物とも——すでに清算不可能な罪を重ね続けてきた(ンベンベが突きつけた問い)。それでもなお、どうしたら惑星共同体のような環世界をつくり上げられるのか。

8. 原島パート②──《おどろき》と《かなしみ》1:21:36–1:47:22

普遍倫理(西垣通『AI人類学』)は、普遍《論理》との対比で立てられる。テクノロジーはテクノ+ロゴス——表面的には「技術+論理」であり、今日のテクノロジー文明は論理=計算的思考を偏重し、万物を論理的計算に還元していく普遍論理の追求を加速している(人工知能はまさに「知能とは計算である」という前提の産物だ)。しかし西洋文化の産物としてテクノロジーを本当にリスペクトして考えるなら、その源流——ヘレニズムとヘブライズム、ロゴスと愛——まで尋ねなければならない。テクノロジーを作りたい、それによって生きていかなければならないという根底的な思いの中には、普遍倫理を追求したいという思いもあったのではないか。それを忘れてしまったのではないか。

ただし普遍というものには慎重な手続きが要る。20世紀後半、私たちは近代西洋中心主義的な普遍主義——自分たちの価値観こそ普遍的に正しく、異なる文明は劣っているから啓蒙するという、善意ですらありえた邪悪——への批判を通過した。しかしその解放(リベレーション)の先で、相対主義の限界にも直面している。それぞれの価値観でよいとした瞬間、相容れない場面での分断と対立は避けがたく、人々が惑星規模で共有できる普遍的価値基軸は、いまだ見出されていない。だから問いはこうなる——今日、もし(as if)惑星共同体が存在していたとしたら、そこで共有されている普遍倫理はいかなるものであるべきか。

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1:40:02要旨:惑星的普遍倫理——《おどろき》と《かなしみ》。新たな技術哲学は《かなしみ》から始まる。

そして今夜の核心。哲学は《おどろき》(タウマゼイン)から始まると言われてきた。テクノロジーによって終わった哲学が《おどろき》から始まったのだとしたら、新たな技術哲学は《かなしみ》から始まる——「ほんとうの哲学は深い人生の悲哀から始まる」と言った西田幾多郎に通じる直観である。悲は心が破られる悲しみでもあり、「愛しみ」と書いてかなしみと読むように慈愛・慈悲にも通じる。井戸に落ちかけた赤ん坊にとっさに動く惻隠の心のような、身近な人への小さな《かなしみ》が、そのまま惑星大に——そこに生きる人々や生き物たちの悲しみに——広がっていくような想像力のジェネレーション。それを可能にする技術・テクノロジーをどう作るのか。これが技術哲学と普遍倫理の課題への、明確な指針として提案された。

9. 原島パート③──ハイデガー・レビナス・デリダ・バトラー1:47:22–2:08:00

この指針を支える系譜が駆け足でたどられる。プラトン以来の西洋形而上学は、立ち現れる自然よりその背後の数学的原理を重視し、原理を使えば自然をコントロールできるとした——そして哲人王による統治という発想は、高度なAIを持つ少数エリートが多数を支配しようとする今日のテクノロジー政治にそのまま蘇っている。これを批判したハイデガーは、しかし歴史や土地に根差す同一性(民族の運命共同体)を重視するあまり、故郷回帰的なナショナリズムと反ユダヤ主義に通じてしまった。技術多様性や宇宙技芸を、自民族の運命共同体の話にしてしまっては、ハイデガーの議論から一歩も外に出ない——これは今夜の惑星的普遍技術への重要な警告でもある。

それを乗り越えるのがレビナスの他者性の倫理——目の前の他者の顔に向き合ったとき、人はその他者への無限の責任を負っていることを感じてしまう。しかしそのレビナスですら、現実の政治では「誰が他者たりえて、誰が他者たりえないか」の線引き——拭いきれない自民族中心主義——を露呈した。デリダは、自己が成立するためには意識されない他者が条件になっている以上、自己と他者を分ける枠組みそのものを、常に組み替え続けることができるし、そうすべきだと論じる(無条件の歓待と条件付きの歓待のあいだの、終わりなき改善としての正義)。そしてバトラー——第1回の受講生の質問への応答も兼ねて紹介された——は、続く戦争の枠組みの中で、死を悼まれる生と、生きていることすら感知されない生を選別する権力を問うた。悲嘆可能性(grievability)こそが生の条件であり、枠組みの外に排除された生もまた、その枠組み自体を支えている——他者が同一性の可能性の条件になっていることに気づくことが、枠組みを作り変える条件になる。Zoomの参加者一覧に並ぶ名前は記号の羅列にすぎないが、その画像や番号の向こうに生身の他者を感知するセンシティビティを持った、応答可能性の技術を私たちは作っていけるか。

10. 結び──惑星的普遍技術によって、惑星的普遍倫理が実現する2:08:00–2:16:06

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2:09:17結び——惑星的生物としての人間性、そして悲嘆可能性の惑星化。

まとめとして原島は言う。人道危機も環境危機も、いずれも生の問題である。テクノロジーは生物と機械の区別を曖昧にすることで、生の問題を覆い隠していく。技術は認識と存在の枠組みを構築する権力作用を持つ以上、テクノロジーを「正しく使う」ことで枠組みを打ち破ることはできないし、生きることと不可分である以上、使わないことでも破れない。ならば——人間はテクノロジーの真の使い方を、まだ知らないのではないか。課題は2つに束ねられる。清算不可能な罪を重ねてきた人間たちを含めた生態系として「惑星的生物としての人間性」を作っていくこと。そして悲嘆可能性の惑星化——惑星大に悲しみを行き渡らせられるような技術、単なる画像や番号でしか知りえない人々に目の前の顔と同じ無限の責任を感じ取れるような感性を作っていくこと。惑星的相互依存とは、平たく言えば縁起である。

受けて七沢が一言で応じる——「惑星的普遍技術によって、惑星的普遍倫理が実現するんだ、ということかなと私は思いました」。悲嘆可能性も、地球共同体も、他者の顔も、要は感性であり身体の問題だ。それは観念的な理解では届かず、異なる技術実践・異なる身体の実践からしか来ない。ほとんど不可能に見えるが、「信じていきましょうよ」。長年ジャングルで共に活動してきた2人が、同じ道を登っていたことを確かめ合う結びとなった。最終課題は原島の話を踏まえて数日以内に正式版が出る。答えはメニューになる——だからこの問いは、mUが終わっても、3月まで、そしてその先も問い続けられる。予定を20分超えて、全8回の技術哲学が幕を閉じた。

SUMMARYまとめ──最終回を貫いた6つの線

  1. すべては惑星的普遍技術/倫理への伏線だった第1回の2つの問いも、5つのワークも、6人の講義も、ひとつの場所に向かっていた。地球規模で行為する動物種となったサピエンスには、戦争を超えるための普遍性——ロゴスから切り離した、生命に普遍的に見られる行為としての普遍性——が要る。
  2. 惑星的普遍技術は、過去の技術の上に、未来に成立する技術の基層(火・石器・編む・発酵)の普遍性の上にテクノロジーの普遍《論理》が乗り、その内側から相転移のように立ち上がる。3つのステップ——基層に気づく、原初のサイボーグを知る、野生のサイバネティクスを実現する。
  3. 眠っている技術を掘り出すことは、開発と同じ価値がある過去に発明された技術のほとんどは、いまも地球上のどこかで使われている(ケビン・ケリー)。掘り出せばそれは発明の感覚とともに身体に呼び起こされ、出来上がったテクノロジーを相対化する力になる。車輪の再発明でよい。
  4. 異なる身体からしか、始まらないテックキャンプの学生は3時間で躍動し始めた。脳の可塑性は年齢を重ねても失われない。AIを使う身体が異なれば、AIから引き出される機能も異なる——テクノロジーは、内側からしか破れない。
  5. 新たな技術哲学は《かなしみ》から始まる哲学が《おどろき》から始まったのなら、テクノロジー以後の倫理は悲嘆可能性の惑星化から始まる。身近な人への小さなかなしみが惑星大に広がる想像力のジェネレーション——それを可能にする技術を作れるか。
  6. 答えは、常にメニューになる今夜の概念さえ、明日には選択肢の一つになりうる。だからメニューの外をつくり続ける。それがAI時代の生きる技芸であり、最終課題は3月まで、その先も続く問いである。

APPENDIXチャット付録──受講生の声(匿名・要約)

講義中のZoomチャットから、個人が特定されない形で主な反応を要約する。

  1. 冒頭、七沢から当日のスライド(本レポートにも引用)のリンクが共有された。
  2. 七沢が紹介した協生農法・拡張生態系の書籍に、受講生から書籍リンクの補足共有があった。
  3. 終了間際には「感想アンケートとは別に、技術哲学の最終課題は提示されるという理解でよいか」という確認の質問があり、七沢が「正式版を数日以内に出す」と応答した。
  4. 例回どおり、事務局から感想フォーム・質問フォームの案内が共有された。
本レポートは、講義アーカイブ動画の自動文字起こしとスクリーンショットから生成したまとめです。発言の要旨は文字起こしに基づき編集していますが、細部のニュアンスは実際の講義動画をご確認ください。受講生の氏名・発言は匿名化しています。