OVERVIEW概要
第3回から、いよいよ個別の哲学者に分け入っていく。最初に取り上げるのは、現代の技術哲学の議論の基礎を築いたマルティン・ハイデガー。講師は京都大学でハイデガー研究により博士号を取得し、現在は東北大学で技術哲学を研究する岡田悠汰である。原島大輔の文明論的な問い(第1回)、直江清隆の概念地図(第2回)を受けて、今回は一人の哲学者の思考を約2時間かけてじっくりトレースする。
講義は前後半の対比で組み立てられている。前半はポジティブな「つくる」——芸術作品の創作をモデルに、隠れているものを隠れなさへともたらす営みとしてのテクネーとポイエーシス。後半はネガティブな「つくる」——あらゆる存在を「役に立つ資源」として駆り立てていく現代技術、すなわち総かり立て体制(ゲシュテル)である。同じ「つくる」がこの両極に開かれていること、そのどちらも人間だけの行為ではなく人間と存在(自然)の相関関係から生じていることが、講義全体を貫く軸となった。
終盤の対話では、生産性・効率化・コスパ/タイパの圧力から、AI時代に「考える」「つくる」ことは可能かという問いまで、ハイデガーの時代診断が現代の実感と何度も突き合わされた。
CONTENTS講義の内容
1. 導入──ハイデガー研究者を迎えて0:00–9:40
七沢は冒頭、自身が『技術への問い』を読んで以来「そこで語られていたことをもとに技術の本質を考え続けてきた」と述べ、この回への期待を語った。技術哲学はしばしば「ハイデガーの問いを考えることだ」と言われるほど、この哲学者の存在は大きい。岡田は京都大学の人間・環境学研究科で博士号を取得後、京都学派(九鬼周造・三木清ら、ハイデガーのもとで学んだ日本の哲学者たち)の研究を経て、近年は「哲学は西洋だけのものではない」という間文化哲学(インターカルチュラル・フィロソフィー)に取り組み、昨年度は半年間ドイツに研究滞在した。
講義の目標は二段構え——まず私たちが日常的に前提している西洋哲学の伝統的な「つくる」概念(質料-形相論)を理解し、そのうえでハイデガーがそこから何を取り出そうとしたのかを、ギリシャ語のテクネーとポイエーシスを軸に読み解いていく。
2. ハイデガーとは誰か9:43–13:50
ハイデガーはヴィトゲンシュタイン、そしてヒトラーと同い年——第一次世界大戦、ワイマール期、ナチスの台頭、第二次世界大戦、戦後までを生きた世代である。主著『存在と時間』は未完(前半のみ刊行)で、フランス現代思想・日本哲学・技術哲学に巨大な影響を与えた。他方で影もある。1933年、ナチスが権力を握った年にフライブルク大学総長に就任しナチス党員となったこと、2014年に刊行された覚書『黒ノート』に反ユダヤ主義的な記述が見つかったことは、いまも取り沙汰され続けている。
3. ハイデガーを理解する3つのポイント13:50–24:00
本題の前に、岡田は10年余りの研究経験から「ハイデガーの難しさ」を3つ挙げた。①日常語や古代ギリシャ語を独自に翻訳・転用した特殊な用語が多い。②著作は圧縮されており、同時期の講義・講演と突き合わせないと議論の出所がわからない。③すべてが「存在するとは何か」という一貫したストーリーの中で展開される。「読んでわからないのは当たり前。そういうものだと思っておいてください」。
そのうえで、講義を貫く3つの方法論的ポイントが提示された。
- 先行的な理解VORVERSTÄNDNIS何かを問うとき、私たちはその対象について漠然としたイメージをすでに持っている。「つくるとは何か」を問えるのは、料理や工作を「つくる」として理解済みだからだ。探求はゼロからではなく、この先行的理解から出発する。
- 隠れと隠れなさALETHEIAあらゆる事柄は「隠れていること」と「隠れていないこと」から説明される。世界は私たちへと現れてくるが、サイコロに裏があるように、現れは常に隠れを伴う。光が当たれば影ができる。この緊張関係のダイナミズムこそハイデガーが捉えたい現象である。
- 人間と存在の相関関係KORRELATION「私が技術を使う」「私が言葉を使う」「私が世界を持つ」のではない。世界も言葉も技術も、人間と存在するものとの関わりの中で生じる出来事であり、人間は一方的な主人ではない。
4. 伝統的な「つくる」──質料-形相論と四原因説24:00–29:20
私たちが普通に思い浮かべる「つくる」は、アリストテレス以来の質料-形相論である。素材(質料)に、頭の中の理想像(形相)を与えること。ユダヤ・キリスト教の創造説も同じ構図で、神は設計図を持ち、土という素材から人間を作った。つまり西洋の伝統では「存在するもの」はすべて「制作されたもの」をモデルに考えられてきた——ハイデガーはここに注目する。そしてこのモデルは、目的-手段の関係、すなわち「役に立つかどうか(有用性)」に基づいており、すべてのものを道具を基準に理解していることになる。だが、道具的なあり方だけが、ものの本当の姿なのか。
5. 道具の見方を裏返す──有用性から信頼性へ29:20–30:50
ハイデガーの答えの鍵は信頼性である。「石橋を叩いて渡る」というが、私たちは普段、石橋を叩かない。ペンで書くとき、コップで飲むとき、いちいち疑わない。道具それ自体が自立したあり方をしているからこそ、私たちは身を委ねることができる。
毎回「このペンで本当に書けるのだろうか」「この橋は渡れるのだろうか」と疑わなければならないなら、私たちの世界は立ち行かなくなる。道具の信頼性は、私たちが生きている世界が安定したものであることを保証している。──岡田悠汰(講義より要旨)
しかし日常の中では、習慣的な使用によって有用性ばかりが前面に出る。存在感なく使えるほうが便利だからだ。道具の自立性は、使えば使うほど隠れていく。
6. ゴッホの靴──芸術作品が示す道具の真理30:55–40:40
では、隠れてしまった道具の自立性はどこで現れるのか。ハイデガーが持ち出すのは芸術作品である。『芸術作品の根源』で論じられたゴッホの靴の絵——普段は「歩くための手段」としてしか現れない靴が、絵の中に置き移されることで、それ自体としてのあり方を見せてくる。岡田はデュシャンの『泉』も例に挙げた。男性用小便器も、美術館に展示されることで、誰も見ようとしなかった存在感が立ち上がってくる。
7. 真理とは「隠れていないこと」──アレーテイア40:40–48:50
ここで「真理」の意味が問い直される。普通、真理とは「考えと事実の一致」(真理対応説)だ。しかしその一致が可能であるためには、そもそも私たちが世界の中に存在し、事実と関わっていなければならない。ハイデガーは真理をギリシャ語のアレーテイア=隠れていないことから考える。物事が立ち現れていること、場が開かれていること自体が真理なのだ。
芸術作品が真理に関わるとは、現実を上手に模写することではない(それなら写真でよい)。作品を通じてものが見えるようになっていく「動きの場」を作動させることである。しかも作品の中では、素材は形相のための手段として乗り越えられてしまわない。石の重さ、絵具の質感——加工しきれない大地の自立性が保たれたまま、世界が立ち現れる。この「世界と大地」の緊張関係こそが、作品における隠れと隠れなさのダイナミズムである。創作とは隠れから隠れなさを戦い取り、真理を作品の中へ置き入れることだ。
8. テクネーは「知」である48:50–53:55
ギリシャ人は、道具の製造も芸術作品の創作も、同じテクネーという言葉で呼んでいた。ハイデガーによれば、テクネーの本来の意味は個別の技能ではなく知の一つのあり方——それも「何かができる」という技能知であり、その本質は存在者を隠れから隠れなさへともたらすことにある。重力は発見される前から存在していたが、「発見(dis-cover=覆いを取る)」によって初めて隠れなくなった。テクネーとは、単に作ることではなく、隠れていたものを現れへともたらす知なのである。
9. 対話──Zoomは、鍛造は、テクネーか53:55–58:52
前半の締めくくりに七沢が問いを重ねた。「遠隔で会話できる可能性は隠れていたが、インターネットやZoomでそれが現れた、という理解でよいか」——岡田は肯定しつつ、それが後半の現代技術の話につながると予告する。七沢は自身の原初技術実践(森の中で鉄を鍛造し、火を起こす)の経験から、「忘れていた、分からなくなっていた技術のあり方が、つくることを通してあらわになる。あらわになったものが呼びかけてきて、また次が引き出され、連鎖していく」と応じた。
何かが明らかになったら、何かが隠れる。覆いを全部取ったらいつか真理にたどり着く、とはハイデガーは絶対に言わない。それを想定したら、彼が批判したい西洋形而上学そのものになってしまう。──岡田悠汰(ブレイクアウト後の対話より)
ブレイクアウト後の共有では「進歩ではないが、明らかになることの良さはある」という論点から、再発見の価値へ。ゴッホの靴が忘れられた靴の存在感を取り戻すように、「車輪の再発明」と揶揄されるものの中にこそ、つくることの面白さが隠れているのではないか——という七沢の応答があった。
10. ポイエーシス──こちらへと・前へと・もたらすこと59:05–74:15
後半は『技術への問い』(1953年講演)へ。テクネーが属するポイエーシス(生み出すこと)を、ハイデガーはドイツ語でHer-vor-bringen=こちらへと・前へと・もたらすことと捉え直す。重要なのは、これが人為的な制作だけを指さないことだ。種子が芽吹き、つぼみになり、花が咲く——自然(ピュシス)がみずから立ち上がってくる動きもまたポイエーシスである。彫刻家が「素材の中に隠れていた作品を彫り出す」と語り、陶芸家が「土と対話する中で作品が立ち上がる」と語るように、制作とは、私が作ることとともに存在・自然の側が立ち現れてくる協働的な出来事なのである。
11. 挑発する現代技術──徴用物資となる自然と人間74:15–76:45
この講演がなされた1953年は、広島・長崎の後、原子力の「平和利用」が語られ始め、冷戦下で水爆実験が続く時代——現代技術が恐ろしいものとして立ち現れてきた時代である。ハイデガーの時代診断はこうだ。現代技術を支配している存在の現われは、自然との調和的なポイエーシスではなく挑発である。水力発電は川に対して、エネルギーを引き渡すよう要求する。取り出されたエネルギーはダムに貯蔵され、いつでも使えるよう待機させられる。自然は目的実現のための徴用物資になっていく——そして人間自身も。戦争では「人員」、企業では「人材」として、人間もまた用立てられていく。
12. 目的の喪失──コスパ・タイパ・効率化の衝動76:45–83:15
ここに重要な転倒がある。役に立つことには本来、特定の目的があったはずだ。しかし、とにかく電気を取り出すことが自己目的化し、何のためのエネルギーなのかは見失われていく。それでも私たちは駆り立てられ続ける。
効率化して何かを達成するのではなく、効率化そのものが目的になっていく。YouTubeを2倍速で見ても時間ができるわけではなく、仕事を効率化しても暇になるどころか、より多くの仕事をする。──岡田悠汰(講義より要旨)
新幹線で東京へ日帰りできるようになれば、日帰りしなければならない社会になる。移動が速くなるということは、速くしなければならなくなるということだ——技術のあり方が、私たちの行動・生活・思考を形づくっていく。
13. 総かり立て体制(ゲシュテル)83:15–84:40
自然を意のままに操作できる「主人」だと人間は思い込んでいる。しかしペン一本すら、壊れれば使えない。震災が起これば原子力発電所はコントロールを失う。人間の有限性は厳然とあるのに、技術はそれを覆い隠す。しかも決定的なのは、この駆り立てが人間の行為であるだけではないことだ。人間もまた、あらゆるものを用立てるよう存在の側から挑発されている。現代技術とは、あらゆる存在者を徴用物資として用立てるよう人間に呼びかけ要求するシステムとしての存在の現われ方——これが総かり立て体制(Ge-stell)である。System の語源(syn-histanai=共に立てること)と重ねながら、岡田は「すべてをシステムの中に組み込んでいくよう要求するもの」と説明した。
14. 生産性の圧と疲労社会──ハイデガーからの展開84:40–87:05
岡田はここから自身の展開として、現代社会の診断につなげた。ビョンチョル・ハン『疲労社会』——個性的であれ、能力を発揮せよと見せつけを要求される社会。ハルトムート・ローザ『加速する社会』——時間を短縮しても暇は生まれず、社会はただ加速していく。生産性・効率性を無批判に信じることは、AIがあらゆる効率化を担える時代には「人間の自殺行為に近づく」。そして「技術に支配されないように頑張ろう」と考えること自体が、人間は技術の主人であり得るという発想に立っており、人間の有限性を忘却させるのではないか。
15. まとめ──ハイデガーと共に「つくる」の意味を問い直す87:05–89:05
タイトルは「ハイデガーから」だったが、次の課題は「ハイデガーと共に」考えることだ。ハイデガーは総かり立て体制の中で「考える」ことの意味を問い直した。それは今風に言えば——AIがいろいろなことを調べ、生み出してくれる時代に、私たちはどうやって自分で考え、つくることができるのか。総かり立て体制が「当たり前のものの再生産」にすぎないなら、私たちはいかにして新たにつくり、世界の見え方を変えることができるのか。
16. 質疑──近代の転換点はどこにあったのか89:05–1:56:23
終盤は質疑と対話が続いた。主なやりとり:
- なぜ現代技術はテクネーと異なってしまったのか(七沢)──転換点は近代。世界のあり方が「像(ピクチャー)」になっていく。テレビやネットは世界を近くに見せるが、その近さは本当の距離を忘れさせる。「近いんだけども、遠くなっている」。七沢はGoogle Earthで地球を転がした時の衝撃を挙げ、「分かり得なさを失った」感覚を語った。
- ゲシュテルの中で、分かり得なさやポイエーシスを取り戻すには(七沢)──岡田は芸術作品の「分からないからこそ出てくる存在感」を挙げる。「ちょっと分かったら嬉しいけど、分かっちゃったら面白くはない」。技術の中でも、故障・バグ・事故というネガティブな形で、ものの存在感は回帰してくる。
- ゲシュテルの具体例は(受講生の求めに応じて)──ソーシャルゲームのガチャやYouTubeがやめられないのは「意思の弱さ」ではなく、システムがそうさせるよう操作している。東京の広告の「圧」——脱毛せよ、投資せよ、成功者になれ。「私のせいだけじゃないんだ、という点で、この考え方にはちょっと救われるところがある」(岡田)。
- 総かり立て体制を引き起こしたのは技術の質的変化か、資本主義など社会の仕組みか(受講生)──根はギリシャからあるが、産業革命以降のブレイクスルーで規模が変わり、挑発のレベルも変わった(水力から原子力へ——見えたものすべてがエネルギーになる)。
- 「役に立つ」「生産性」は近代の産物か(受講生)──有用性も生産性も古代からある(農耕はまさに生産性の営みだ)。近代に決定的なのは自己の成立。アイデア(理念)は神のものだったが、デカルト以降「I have an idea」——私の頭の中のものになった。役に立つかどうかを判断する独立した主体が近代に生まれ、奉仕のベクトルが神から自分へ変わった。
最後に岡田は「今日の話は、物をつくるだけでなく、制度や社会や世界をつくっているときに何が起こっているのかを見るヒントになれば」と結び、七沢は「ゲシュテルへの向き合い方は受講生それぞれにあるはず。Discordで続きをシェアしてほしい」と呼びかけた。次回・第4回(8月27日)は村田純一による、アクターネットワーク理論・社会構成主義と西田幾多郎の技術論である。
SUMMARYまとめ
- 伝統的な「つくる」は質料-形相論素材に理想の形を与えること——西洋哲学は存在するものすべてを「制作されたもの」をモデルに、道具を基準に理解してきた。その根底には目的-手段の有用性がある。
- 道具の本質は信頼性、真理は隠れなさ石橋を叩かずに渡れるのは、道具が自立したあり方をしているから。その自立性は使うほど隠れ、ゴッホの靴のように芸術作品の中でのみ立ち現れる。真理(アレーテイア)とは一致ではなく、物事が隠れなく立ち現れていることである。
- テクネーとポイエーシスは「もたらす」知テクネーは隠れているものを隠れなさへともたらす知のあり方。ポイエーシスは「こちらへと・前へと・もたらすこと」であり、花が咲くように自然がみずから立ち上がる動きも含む。制作は人間と自然の協働的な出来事である。
- 現代技術は挑発であり、総かり立て体制である現代技術は自然にエネルギーを要求し、貯蔵し、すべてを徴用物資として用立てる——人間自身も「人材」として。目的は見失われ、効率化そのものが目的になる。これは人間の行為ではなく、人間と存在の共犯関係から生じるシステム(ゲシュテル)である。
- 問いは「AI時代に、つくることで世界を変えられるか」生産性の無批判な信奉は人間の有限性を忘却させる。ハイデガーと共に考えるべきは、すべてが用立てられる世界の中で、いかに考え、いかに新たにつくり、世界の見え方を変えられるかという問いである。
APPENDIXチャット付録
今回のZoomチャットは、講義スライド共有に関する事務連絡とリアクションのみで、議論に関わる書き込みはなかった。質疑はすべて音声で行われた(本文16節参照)。