OVERVIEW概要
STEP 2「根源へ遡る」の最初の科目、技術哲学の初回。全8回のガイダンスとして、七沢智樹によるmU全体の位置づけ、原島大輔による「なぜいま技術哲学なのか」の講義、そして受講生が「技術とは何か」を書き出すワーク——七沢のミニ講義と往復しながら5つの問いに応答していく——という3部構成で行われた。
原島の講義の出発点は、いささか挑発的な問いだった。ハイデガーは20世紀半ば、サイバネティクスの登場によって「哲学(西洋形而上学)は歴史的な役割を果たし終えた」と述べた。哲学はすでに終わっている。ならば、その哲学を、哲学を引き継いだテクノロジーに適用する「技術哲学」に、いまさら何の意味があるのか——講座が始まった途端に足元を掘り崩すこの問いに答えることから、講義は始まる。
答えの鍵として提示されたのが、ユク・ホイの技術多様性だった。テクノロジーはヨーロッパ特有の文化的産物にすぎず、技術はテクノロジーだけではない。世界には別の技術と、それと不可分の別の知のあり方がある。そしてこの多様性は、分断や文化本質主義のためではなく、「共に世界をよりよくする歴史的変動の条件」として要請される。講義は最終的に、テクノロジーが加速させた普遍《論理》の拡大と、忘却された普遍《倫理》という対比を経て、惑星規模の複合危機にどう向き合うかという課題に着地した。
後半、七沢が受講生に投げかけたのは「技術とは何か」「テクノロジーと技術は違うのか」「技術を使うのは人間だけか」「技術は何が生み出すのか」「技術は何を生み出すのか」という5つの問い。問いの合間に『遅刻の誕生』と和時計、コップの「技術のジレンマ」、エジソンの同時発明といったエピソードが挟まれ、受講生が自分の技術観を言語化してアンラーンの出発点に据えるための時間となった。
CONTENT内容
1. mUのなかの技術哲学──ステップ2に入る意味0:09:44–0:20:29
司会は七沢。技術哲学の全8回は原島と2人で運営し、最初と最後の回は2人で担当する。初回はガイダンスとして、①七沢からmUにおけるアンラーンの意味とSTEP 2に入る意味、②原島から「なぜいま技術哲学を学ぶのか」、③七沢からの問いに受講生が手を動かして応答するワーク、の3部で進むことが冒頭で示された。
mUは「AI時代のつくるを学ぶ」プログラムだが、名前が示すとおりアンラーンした上で再定義し、実装するという順序で組まれている。デザインやエンジニアリングだけでなく哲学・人類学・技術史を横断するのは、「つくる」と「技術」を一度解体してから捉え直すためだ。
その大前提を、七沢は言葉を重ねながら言い直していく。私たちは予測の世界を生きている。いや、予測の世界に生かされている——。
私たちは予測された世界に住まわされている。その予測自体を疑おうというのがmUの大前提です。七沢智樹(0:14:30 前後・要約)
「何十年後の自分はこうなっている」「AIの未来はこうなる」。そうした予測された未来を見据えて、それが現実化していく——そのように社会はつくられている。だからこそ罠がある。アンラーンして未来を構想したつもりが、それはすでに予測された未来、誰かが意図的につくった未来で、そこにはまり込んでしまう。そこから生まれる未来は、その人が本当に望む未来ではない。
ここから七沢は、アンラーンの前提条件を強調する。アンラーンばかりやっているとうまくいかない。どのような未来が予測されているのか、世界がどう動いているのかを知らなければ、解体しようがない。STEP 1のテクノロジーの未来学とAIと社会Ⅰで「予測されている未来」——未来学で語られた脳科学の予測モデルや、機械が予測する未来がどの方向を向いているのか——を学んできたのは、そのためだった。中国の未来像にただ驚いて聞いていただけなら、まだ学べていない。繰り返し聞いてほしい、と。
同じことは技術哲学にも言える。技術やテクノロジーが「このようなものである」と捉えられてきたこと自体をよく知らなければ、アンラーンのしようがない。そしてその捉え方に、哲学は深く関わってきた。そのうえでSTEP 2に入る。技術哲学・技術史・技術の人類学と3つのフィールド講義を通して「つくる」の意味をアンラーンしていく。技術哲学が担うのは、そのうち哲学からの解体である。
2. 技術哲学とは何か──記述学と規範学0:20:29–0:28:00
原島にバトンが渡り、素朴な問いかけから講義が始まる。
技術について調べたり考えたりすることと、どう違うのか。哲学を技術に応用することなのか。それとも、技術と一体不可分の哲学のことなのか。最後の立場を取るなら「技術哲学」という言い方はむしろ冗長になる——そうした含みを残したまま、原島は学問の分類に話を進める。
記述学は事実をめぐる学問である。歴史学、言語学、そして自然科学。「技術とはこういうものである」という観察と記述がこれにあたり、さまざまな文化の技術を観察記述する文化人類学もここに入る。
対して規範学は価値をめぐる学問だ。「技術とはこうであるべきである」を扱う。西洋思想において、この規範の学を担ってきたのが哲学だった。とりわけ西洋形而上学は真・善・美という3つの価値をめぐるものであり、それぞれが技術の正しい理解・正しい使用・正しい創造に対応する。哲学が「魂の世話」と呼ばれてきたのも、この規範性のゆえである。
3. 哲学の終わり──それでも技術哲学をやる意味はあるのか0:28:00–0:44:00
ここで講義は最も挑発的な地点に達する。マルティン・ハイデガーは20世紀半ば、サイバネティクス(情報テクノロジー)の登場によって哲学=西洋形而上学は歴史的な役割を果たし終え、以後はテクノロジーに基づく西洋文明の惑星化が始まると述べた。
その西洋形而上学とは何だったのか。原島はスライドで7つに整理する。人間による自然支配のための知。世界を外から客観的に観察記述する主体による学問という主客分離。存在ではなく存在者についての学問という存在忘却。自然そのものではなく、自然を背後で支配する数学的法則についての計算的思考。そして資源としての自然——自律的な自己産出の働きではなく、他律的に生産させられる、計算可能な利用対象として万物を見る視線である。
この世界観と不可分に育ったのがテクノロジーであり、ベルナール・スティグレールを引けば、テクノロジーとは世代を超えた記憶継承の技術にほかならない。だとすれば問いはこうなる。
もはや終わったヨーロッパ哲学を、それを引き継ぐヨーロッパ技術としてのテクノロジーに適用することに、いまさら何の意味があるのか?スライド「技術哲学──哲学の終わりの後に?」より
原島自身が言うとおり、これに答えられなければ「技術哲学について学ぼうという講座が始まった途端、もうやる意味がなくなってしまう」。講義の後半は、この問いへの応答として構成されている。
4. 技術多様性──自己の条件は他者だった0:44:00–0:55:00
答えの第一の柱が技術多様性である。テクノロジーに基づく現代文明を変えるには、技術から変えなければならない。そしてテクノロジーはヨーロッパ特有の文化的産物であり、技術はテクノロジーだけではない——ユク・ホイ『再帰性と偶然性』の議論である。
さらに、テクノロジーと不可分の哲学もまたヨーロッパ特有の産物である以上、技術多様性に基づいた知(精神)の多様性、すなわちポストヨーロッパ哲学がありうる(同『ポストヨーロッパ』)。
ここで原島は、多様性の意味を通俗的な理解から引き離す。多様性を認めるとは、単に「いろいろあっていい」ということではない。
我々がこれしかないと思っていた価値観の条件として、我々が見ないことにしていた様々な価値観があった。ということは、自己の条件が他者であったということです。原島大輔(0:50:00 前後)
自分はこういうものだと思っていた、その根本的な条件のところに、自分はこういうものではないと思っていたもの、そもそも想像力の中に入ってきもしなかったものが置かれていた。自分の世界観の枠組みに入り込めないものこそが、自分の世界観を支えている。この認識が、枠組みそのものを変えていくための原動力になる。
だからこそスライドは念を押す。多様性は文化本質主義や分断・対立のためではなく、共に世界をよりよくする歴史的変動の条件である、と。
5. 普遍論理の拡大と普遍倫理の忘却0:55:00–1:14:00
講義は現代の情勢へと降りてくる。20世紀後半の西洋中心主義批判と文化相対主義を経て、21世紀初頭のリベラルは「教会から国家へ、国家から国民へ、国民から世界市民へ」という解放の道筋を描いていた。ところが現実は逆へ向かう。
排外主義ナショナリズム(ネット右翼)、封建主義(テクノ封建制)、専制主義(デジタル専制)、伝統的宗教的道徳観(テックライト)、そして国家間戦争(防衛テック)の復活。世界市民どころか国民国家へ引き戻され、戦争は「防衛」という別の名前で続いていく。テクノロジーはそのどちらの側にも深く食い込んでいる。
ここで原島は、テクノロジーと哲学に「普遍倫理」(西垣通『AI人類学』)のポテンシャルを見出す。テクノロジーと哲学が西洋文化の産物であるとすれば、その西洋文化の源流にはヘレニズム(ギリシア・ローマ思想)とヘブライズム(ユダヤ・キリスト一神教)がある。そしてその根底には論理と愛がある。これまでテクノロジーが加速させてきたのは主に前者の普遍《論理》の拡大であり、後者の普遍《倫理》は忘却された。
だが、忘却されたことと失われたことは違う。
テクノロジーはすっかり忘れているとしても、失っているわけではないのではないか。テクノロジーのポテンシャルには、普遍論理だけでなく普遍倫理の部分があったはずだ。原島大輔(1:05:00 前後)
ここで示されるのが、テクノロジーなしの普遍倫理ではなくテクノロジーと普遍倫理から始めなければならないという立場だ。和魂洋才への反省——魂と精神の実存的な対話としての「近代化のやり直し」が、その具体例として挙げられる。テクノロジーと哲学をあくまで西洋の文化的産物とみなすということは、かけがえのない文化として敬意を払い、その根底をなす精神的な価値観と向き合うということでもある。技術多様性を経た我々は、世界中の様々な源流から普遍倫理を汲み直せる。
着地点は惑星的課題である。今日、人々はテクノロジーによってなし崩し的に惑星文明を形成しているが、精神的にひとつの文明をなしているとは到底言い難い。そこへ未曾有の複合危機——人道危機と環境危機——が押し寄せている。清算不可能な罪を重ねてきた人間が、それでもなお地球共同体をつくるにはどうしたらよいのか(アシル・ンベンベ『地球共同体』)。技術哲学が取り組まなければならないのは、この惑星的課題である。
6. ディスカッション──「大きすぎる話」をどう引き受けるか1:14:00–1:38:22
講義を受けて、ブレイクアウトルームでのディスカッションへ。戻ってきた受講生からは「話が大きすぎて困った」という率直な感想も出たが、各ルームは活発だったという。オブザーバー参加していた村田純一(東京大学名誉教授・第4回登壇)も「お二人の話のほうが具体的な例が出てきて面白かった」とルームでの議論を評した。
チャットと全体共有では、次のような論点が交わされた。物質的には満たされてきたが精神的には成熟しておらず、真の意味で満たされていないのではないか。ヨーロッパ哲学の土壌で育ったテクノロジーを人類が地球規模で享受しているが、そこに局所的な地域の精神性が反映されていないことが問題なのではないか——原島は前者について、精神的に成熟していないことに同意しつつ、物質的にも一部の人々だけが満たされている一方で、それを支える人々がいることに注意を促した。後者については、「まさにその通り」と受け、では局所的な精神性を反映したときテクノロジーそのものはどう変わるのか、と問いを重ねた。
七沢からは、復古主義的にテクノロジーを抑制する方向は個人としては可能でも地球全体では成り立たない、という現実的な指摘があった。人間はテクノロジーを使ってしまう。ならばその中に何かを埋め込む、あるいはテクノロジーの中から引き出してくるしかない——という構えである。
ブレイクアウト明けには科目間のナビゲーションも入った。原島が踏み込んだ普遍倫理と人間の話は、技術哲学よりもむしろ技術の人類学(11月開講・原島担当、西垣通も登壇)で本格的に応答されるという。同じ問いを、技術哲学は技術の側から、人類学は人間と生命の側から掘る——mUの科目群が一つの問いを別々の入り口から攻める構造が、ここで垣間見えた。
7. ワーク①──明治以前の日本に、テクノロジーはなかった1:38:22–1:47:30
後半は受講生が自分の技術観を書き出す時間。原島の講義から「テクノロジーは西洋哲学2500年の歴史を背負っている」「テクノロジーを使うことで人間のあり方が変容していく」という技術哲学的な問いが浮かび上がったところで、こんどはそれを受講生自身の手で確かめる。七沢から問いが連続で投げられ、チャットに書きながら考える形式で進んだ。
- 技術とは何か。
- テクノロジーと技術は違うのか。違うとすればどう違うのか。
- 技術を使うのは人間だけか。動物の技術と人間の技術は何が違うのか。
- 技術は、何が生み出すのか。
- 技術は、何を生み出すのか。
問い2に対する七沢の整理は明快だった。テクノロジーとは、西洋近代に誕生した、ひとつの技術のあり方である。だとすれば——
明治以前の日本には、テクノロジーがなかったということになるんですね。つまり、異なる技術のあり方をしていた。七沢智樹(1:42:00 前後)
それを実感させるのが『遅刻の誕生』のエピソードだ。明治政府がヨーロッパから技師を招いて橋やダムを建設したとき、集められた日本の労働者は誰も時間どおりに来なかった。遅刻という概念そのものが存在しなかったのである。いまや世界でいちばん遅刻に厳しい国からは信じがたいが、明治初期の日本には、時計に基づいて計画的に生産するというテクノロジー的な生産様式がまるごと欠けていた。
ここでオブザーバーの村田純一から補足が入る。江戸の和時計(大名時計)は不定時法——夏の一刻は長く、冬の一刻は短い。暗いうちは働かず、明るくなったら働くという生活実感にむしろ合っていた。しかも和時計は、西洋から入ってきた機械時計を日本の時間感覚に合わせてつくり変えたもので、その技術者・田中久重は後の東芝の創始者にあたる。技術としては極めて優れていた——では、これはテクノロジーなのか技術なのか。そのくらいになると区別は曖昧になるのではないか、と。
七沢はこう引き取った。ここで言うテクノロジーとともに導入されたのは、デカルト的な座標軸——一様に流れる時間軸に沿った時間概念であり、その背後にある原理を普遍とみなす機械論的世界観である。和時計は技術として優れていたが、その意味でのテクノロジーではなかった。この整理は第2回で本格的に扱われる。
8. ワーク②──道具という外化、「発明させられている」1:47:30–2:05:00
問い3。技術を使うのは人間だけではない。狩りの技術、捕食の技術と言えば脊椎動物以外にも及ぶし、アリは社会構造という社会技術すら持っている。生物は生きるためにさまざまな機能を発揮する——生きるための機能としての技術が根源にある。人間の技術を動物の技術との連続の上で捉えること。それが七沢の強調点で、フィールド講義の原初技術実践やTechキャンプはこの連続を身体で確かめる場だという。
では人間の技術は何が違うのか。チャットには「継承と改変が起こる」「原理に遡る」「素材を加工し概念化・抽象化する」「言葉で間接的に伝達できる」と鋭い応答が並んだ(付録参照)。七沢自身の答えは2つ、道具と意識的であることである。
道具とは内部機能の外化だ。分かりやすいのは火である。消化という身体の内の機能を外に出したのが煮炊きで、消化に使っていたエネルギーを外部化することで、脳に回せるエネルギーが増えたという説まである。石斧は素手を超える力の拡張である。そして七沢は手元のコップを掲げて、自ら「技術のジレンマ」と呼ぶデモンストレーションをしてみせた。このコップは手の延長として、いま私の身体と一体化している。だが外部に置けば私ではない。割っても私は無事だが、割れると悲しい——一部だったからだ。
一部であり、内部であり外部であり、自己であり他者であるという、非常に複雑なあり方をする。七沢智樹(1:52:30 前後)
この「自己であり他者である」ものこそが〈物〉であり、物は誰とでも共有できるがゆえにシンボル化していく。シンボル操作が可能になり、道具の発展と言語の発展は密接に絡み合っていった。チンパンジーやカラスも棒を使ってアリを捕るが、その棒を取引することも、「この棒はよく捕れる」と世代を超えて伝承することもなく、基本的にポイッと捨てる。流通と世代間継承、その再帰的な発展が人間の技術を分けた——原島が前半で述べた「世代を超えた記憶継承の技術」と、ここで話が繋がる。
問い4、技術は何が生み出すのか。七沢はエジソンの単独発明神話に異議を唱える。科学館の展示は「エジソンが電球を発明しました」と語るが、発明はさまざまな関係性の網の中で起こる。同時発明——世界の別々の場所で同じものがほぼ同時に発明される現象——がそれを物語っている。
発明しているというより、発明させられている、というのが正確なところかなと思います。七沢智樹(1:57:45 前後)
ChatGPTの登場時、ヨーロッパは規制しようとし、アメリカも一時は開発速度を落とす方向に傾いた。だが自分が抑えてもどこかがやってしまう以上、抑えている場合ではない、と各国は開発へ向かった。技術は環境から引き出されるように発展させられる。そしてその環境や社会自体は、神話や慣習や宗教がかたちづくっている。
問い5、技術は何を生み出すのか。技術は製品に閉じない。AIがつくられれば、私たちはAI的な発想をし、AI的に行動するようになり、AI的な社会と世代が生まれる。スマホは「スマホ的なもの」を生み出した。一つの技術が生まれるとネットワーク全体がガッと組み変わり、それが連鎖していく——AIの登場と防衛テックの勃興が連動しているように。この連鎖をトレースすれば、未来に何が起きるかも見えてくる。
技術というものを単品で捉えるのではなく、絡み合いの中で起きていく現象のように捉えていきましょう。七沢智樹(2:02:10 前後)
まとめるとこうなる。技術はテクノロジーに閉じず、生物全般が発揮するものである。人間はそこに意識的になり、道具を持った。技術は計画どおりにつくられ予定どおりに使われるものではなく、環境に引き出されるように生まれ(ただし自然と違って責任が伴う)、社会全体を複雑に変えていく。——この捉え直しを頭に入れておくことが、技術哲学を考えるベースになる。
9. 質疑と締めくくり2:05:00–2:17:18
チャットに残っていた2つの論点が取り上げられた。まず「自分の世界観の枠組みに入り込めないものこそが自分の世界観を支えている」という論点について、原島はこの観点から考えてきた思想家としてジュディス・バトラー『戦争の枠組み』を紹介する。国家やメディアがつくる「誰が生きているとみなされるか」の枠組みは、規範の外に置かれた人々によって支えられており、だからこそ変えていける——哲学・思想の文脈で長らく脱構築と呼ばれてきた型である。
もう一つ。技術多様性が進んでいけば、本当に人道的・環境的な危機を乗り越えられるのか。受講生が声で補足したこの問いに、原島はジルベール・シモンドンの個体化の議論を引いて応じた。あるシステムの中に互いに矛盾し合う要素があり、その緊張が高まると、システムは暫定的な解決状態=準安定状態へ移行する。だがそれも暫定的であるがゆえに、内部にはまた両立不可能な矛盾が残り、それが高まればシステム全体がふたたび姿を変える。
なぜこのモデルが要るのか。従来の弁証法では、矛盾する他者と出会っても、それを乗り越えて総合し進歩していく主体は変わらない。西洋精神が東洋という他者を取り込んで成長する、あるいは日本が西洋を取り込んで成長する——お互いが自己中心的な世界の見方の中で自分だけが成長する歴史のモデルしかつくれない。対して個体化のモデルでは、矛盾が高まったときみんなが変わりながらシステム全体が構造変化を起こす。そしてその変化の原動力こそが差異、すなわち多様性である。
多様であることが分かればゴール、おしまいです、というのではなく、それを原動力として変えていくために必要なステップとして位置づけられている。原島大輔(2:15:00 前後)
多様性がないところに無理やりつくるのならインチキだが、実際に見れば技術多様性も精神の多様性もある。それを明らかにすることで変化の原動力が生まれ、いま世界を見ている枠組みのおかしさ——その枠に入っていない人たち、枠が踏みつぶすことで成立していた人たちの存在——が見えてくる。
締めくくりに七沢は、この先の6回を予告した。技術とは何かを根源的に遡って捉え直していくと、技術の根源的な多様性におのずと気づいていくことになる。そこには今日の2人の話を乗り越えるヒントが、受講生それぞれの中にポッポッと生まれてくるはずだ——mUで重要なのは、それを実践することだ。簡単に超えられる問いではないが、共に向かっていく、と結ばれた。
SUMMARYまとめ──初回を貫いた5つの線
- アンラーンの前に、まずラーンが要る解体するには、いま何がどう捉えられているかを知っていなければならない。STEP 1で「予測された未来」を学んできたのは、そのための準備だった。学びが浅いまま構想すると、誰かがすでに用意した未来にはまり込む。
- 哲学は終わった。それでも技術哲学から始めるハイデガーの言うとおり西洋形而上学が役割を終えたのなら、それを引き継ぐテクノロジーに哲学を適用する意味はどこにあるのか。この自己否定的な問いを最初に置いたことが、この講義の誠実さだった。
- 自己の条件は他者だった技術多様性とは「いろいろあっていい」ではない。自分の世界観の枠組みに入り込めないものこそが、その枠組みを支えている。だから多様性は分断のためではなく、枠組みを変える原動力として要請される。
- 普遍倫理は忘れられただけで、失われてはいないテクノロジーが加速させたのは普遍《論理》の拡大だった。だが普遍《倫理》のポテンシャルは残っている。テクノロジーなしの倫理ではなく、テクノロジーと普遍倫理から始める——それが惑星的課題への構えになる。
- 技術は発明されるのではなく、引き出されるエジソンは関係の網の中で「発明させられて」いた。技術は環境から引き出されるように生まれ、生まれた技術は行動様式・社会・世代を生み出す。単品ではなく絡み合いの現象として捉えること——それが後半のワークで七沢が繰り返し引いた補助線であり、技術哲学を考えるベースになる。
APPENDIXチャット付録──受講生の声(匿名・要約)
講義中のZoomチャットから、個人が特定されない形で主な反応を要約する。
- 「物質的には満たされるようになってきたが、精神的には成熟・発達しておらず、真の意味で満たされていることにならないということか」——講義前半への応答。
- 「ヨーロッパ哲学の土壌で発展してきたテクノロジーを人類が地球規模で享受しているが、それが局所的な地域の精神性を反映していないことが問題である、と解釈した」——原島が「まさにその通り」と受けた読み。
- 「自分の世界観の枠組みに入り込めないものこそが自分の世界観を支えている、はなるほどと思った。一方で、技術多様性が進んでいったら本当に人道的・環境的な危機を乗り越えられるのか、という疑問がある」——講義末の質疑で取り上げられた。
- 技術の定義として:「身体が担っていた機能を、身体の外側へと出していく過程で生み出されるもの」「人の生活様式や文化を変容させ得るもの」「自分の周りの環境に働きかけて、より長く快適に生きていけるようにするやり方の集合」「身体を拡張した道具」。
- テクノロジーとの違いとして:「技術のほうが幅広く、身体をつかうものを含む。テクノロジーは外在化した道具化したものを指す」「テクノロジーは工学技術であり、技術は工学の範囲外も含む」「テクノロジーは自然科学の方法と一神教の価値観で駆動される?」「科学体系と一体の工学をテクノロジーと指す?」。
- 「和時計は技術で、時計はテクノロジーという印象になった。暮らしに根付くもの、人とのコンテキストが強いものが技術ということかもしれない」。
- 動物と人間の違いとして:「人間の技術は継承と改変が起こる。動物の技術はゲノム的に規定された再現が続く」「動物は原則こうなるという知識を活用し、人間は原理に遡る」「人間は道具や素材を加工し、概念化・抽象化して使う」「人間の技術は言葉や文章で間接的に伝達できる」。
- 「チンパンジーが蟻を食うのに木の枝を使うのは道具だと思うが、人との違いはその道具への思い入れだろうか」。
- 技術を生み出すものとして:「原動力という意味では、欲求、欲望、思うようにならないというジレンマ」「発明圧のようなものがあるのではないか。道具になりうるものの要素がつながっていく」「ここに何かがあったほうがいいとか、これを使えばこんなことができるんじゃないかという欲望、妄想」。
- 技術が生み出すものとして:「技術に即した行動様式や文化や生活スタイルを生み出すと同時に、その技術が前提となる世界や社会が生み出される」「技術を使う中で人々の新たな思考や生活様式が生まれ、それが社会に普及して文化や価値観にも影響する」。