HISTORY OF TECHNOLOGY

技術史 第8回(最終回)
対談:技術史をどう「語り直す」か──AI時代の技術史入門へ

まとめレポート(講義動画 2時間16分49秒より作成)

講座
makers Unlearn 2026(mU)
登壇
七沢智樹(Technel合同会社/山梨県立大学 特任教授)× 相馬皓介(週末縄文人)× 沓名貴彦(国立科学博物館)× 島田将喜(帝京科学大学)
開催日
2026年10月19日(月)

OVERVIEW概要

全8回の最終回は、講師4人がそろって登壇する対談回。前半で七沢が7回分の講義を「全8回の地図」として束ね直し、3人の講師がそれぞれの回を自分の言葉で振り返る。そのうえで、1週間前に意識研の森で行ったフィールド講義「原初技術実践」──火起こし・黒曜石でのイノシシの解体・石斧で木を倒す・土器で芋を蒸す──の報告を挟み、後半は「やってみて、技術史はどう見えたか」を起点に、台本のない対談が2時間近く続いた。

対談で繰り返し浮上したのは、技術が身体と切り離せないということだった。火起こしのヒーローはパワーのある人だが、縄文的な暮らしにはそれ以外の特性が活きる場所がいくらでもある(相馬)。「私はやらなくていいか」と言える集団の余裕こそ豊かさであり、誰でも使えるようにする近代のデザインは、誰もが使わねばならない義務を全員に分配してしまう(島田)。石は割ってみないと分からず、同じ黒曜石でも沢筋ごとに違う──名詞で「石」と呼んでいるものは一つひとつ別のものだ(相馬・沓名)。過剰模倣は、個人では到達できない文化の知恵を丸ごと受け取るための、むしろ効率的な仕組みである(島田)。そしてサピエンスはいまも石に取り憑かれたまま──黒曜石も翡翠も、半導体もレアアースも(沓名)。

終盤、受講生の「縄文人はあらゆるものを資源化する達人でもあったのでは。集団スケールと技術の規模が小さかったから自然と共生できたのでは」という問いに、七沢は「その通り。だからこそ流れは止められない。流れの中から、流れの向きを変える」と応じ、相馬は「縄文人は資源だと思っていなかった。石の力を借り、草の力を借りるという価値観だったはず」と、『風の谷のナウシカ』冒頭のシーンを手がかりに語った。最終課題は「日常の技術を起源から取り直す」「形容詞(機械なら動詞)で捉え直す」「自由に問いを立てる」の選択制で、後日正式に案内される。講師4人の対談は来年も続ける、という予告とともに、技術史の全8回は幕を閉じた。

タイムスタンプは講義アーカイブ動画の再生位置です。スクリーンショットは講義スライドの引用(©七沢智樹)。受講生の氏名・発言は特定できない形に編集しています。

CONTENTS講義の内容

1. 導入──最終回の進め方0:00–1:50

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1:20最終回のタイトルスライド。「対談:技術史をどう『語り直す』か──AI時代の技術史入門へ」。登壇は七沢智樹×相馬皓介×沓名貴彦×島田将喜。

「ついに技術史、最終回になりました」。七沢は、今夜はじっくり相馬・沓名・島田の3人と対話しながら振り返り、受講生にも入ってもらって深めていきたい、と切り出す。1週間前に行った原初技術実践の振り返りも含める。進め方は、①第1回の問いに戻る総まとめ、②原初技術実践からの報告、③受講生の感想から立てた問いをめぐる対談、④技術史をどう語り直すか。スライドはすでにアーカイブサイトに上がっているので、そちらを見ながら聞いてほしい、と案内された。

2. 七沢の振り返り──第1回の問いと「わずか5世代」1:50–6:00

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3:05全8回の地図──基層から巨大社会へ。7回の講義を一枚に並べ直したスライド。

第1回の問いは「いかに技術によって世界は形作られてきたのか」だった。技術とは生きとし生けるものが環世界をつくる技という定義から出発し、各時代・各パラダイムで世界がどう形作られてきたか、その多様なあり方を見てきた。自然を搾取可能な資源と見なさない形で技術を発揮してきた縄文の姿も、メソポタミアで「自然を資源と見なし、生産性と効率を高めていく歯車」が回り出した瞬間も(第7回)。

総まとめの核は、第1回で示した「テクノロジーはわずか5世代の技術の系譜にすぎない」という相対化である。七沢自身、毎日6時ごろから火を使って家族のご飯をつくり、これからの季節は薪ストーブでコンロも使わずに調理する──78万年前から炉があった(小泉)という古い技術の上に、AIのような最先端のテクノロジーが重層的に乗っている。道具を発明して以来の「四つのジレンマ」(内でも外でもある/拡張するほど失う/見えなくなる/止まれない)は哲学的すぎたかもしれないが、来年刊行予定の本にまとめているという。そして「腐って消えた暮らしの技術こそ本体だった」──発掘されるのは石と骨ばかりだが、腐って消えたものの中に技術の本体があったはずで、それを原初技術実践で実験考古学的に、身体で掘り起こした。そこで見えてくるのは、人間という生物種が環世界をつくる技は、必ずしも現代のテクノロジー的なものである必要がないかもしれない、という気配である。

3. 講師3人の振り返り──遊び、形容詞、退化と多様性6:00–24:30

島田将喜(第2回・動物の遊びと道具使用)。伝えたかったメッセージは、技術は環世界を生み出す技であり人間に限らないが、基本的に身体と切り離すことができないということ。これは相馬の「形容詞として物を見る」発想や、アフォーダンスの考え方と親和性が高い。チンパンジーのアリ釣りやナッツ割りは、自分の身体のサイズや年齢・性に応じて環境から適切なものを選ぶ技である。そして遊び──子どもの物体操作が将来の道具使用につながるという意味でも、生存にほとんど関係のないことに持てる能力を全投入するという意味でも、技術は遊びと切り離せない。「チンパンジーも生きるために必死で技術を身につける」というのは誤解で、むしろ逆。ゆとりがあって暇だからアリを釣る。パチンコのように「じゃんじゃん出たら楽しい」という余剰の面白さに全振りするところに、技術が発展する余地がある。最後に、人間の社会的学習の特徴である過剰模倣(見たものを丸ごとコピーする)とチンパンジーの目的模倣(無駄を弾いて一直線に問題解決する)の対比を挙げ、「なぜ人類は一見無駄なことまで真似るのか」の生態学的な意味を、森で相馬と体を動かしながらずっと考えていた、と語った。七沢は「技術の本質を問う本を書いているつもりだが、遊びと過剰模倣の話は欠けていた」と応じる。

相馬皓介(第3回・「あるもので、なんとかする」)。原初技術実践で皆が火起こしから石器づくり、石の木材加工まで、自分が普段週末にやっていることを集団でやるのを見て、面白かった。石は一つひとつ穴の開きやすさも溝の掘りやすさも違い、持ち方ひとつで変わる。島田から「基盤使用」という言葉を教わった──相馬が普段、平たい鉄平石に刃をつけたものを両足で挟んで溝を掘っているやり方である。姿勢を変えると急に使いやすくなる。木も、樹皮を剥ぐと一本一本まったく違い、ミズメザクラを取ったチームの木は焼いてもほとんど炭化せず、カチカチのまま先が尖った。チェーンソーで切ったら分からない個々の硬さや質感、それをうまく使うための身体の使い方──縄文時代までテクノロジーを下げると、その辺の石ころや木の一つひとつとの向き合い方が変わる。これを突き詰めれば土器も家もつくれるし、その先に暮らしがある。立ち返りたくなったときの良いものになれば、と。

沓名貴彦(第4回・マテリアルから見える人類の歩み)。他の回がテーマにぎゅっとフォーカスしていたのに対し、自分はある程度通史的な部分を紹介したためぼやけた印象になったかもしれないが、それも一つの設定として重要だと考えて話した。受講生の関心が集まった「技術の退化」という表現について改めて考えると、レベルが上がっていく中でそこで止まってしまう状態──日本は最先端の半導体技術を使いこなす手前で止まり現状維持になっている──と、それすらやらなくなる退化の両方がある。失われた技術は数多くあり、一つひとつが見えてくるとよい。4人で話していて改めて思ったのは多様性の重要さ──一つの技術が立ち行かなくなったとき他で補完できなければ、それでおしまい(絶滅)になってしまう。材料→道具→機械というステージの言葉の違い、「形容詞なのか動詞なのか」という問いも含めて、新しい時代の話まで皆が考えてくれるといい。

七沢が引き取る。Instagramではパプアニューギニアやアフリカの人々のプリミティブな暮らし──吹き矢で獲物を取る、猿を食べる──が毎日流れてくる。そこには私たちから見れば失われた技術があり、ある時代に高度に発達して退化したものもあるかもしれない。しかし現代的な身体と感覚のまま、頭で考えても技術は実践できない。具体的に実践して異なる身体を獲得することで、異なる技術史がそこから刻まれていく。小島の回(第5回)の海女さんは、技術に助けられて老眼になっても収入が増えた──現代の常識を見つめ直す事例だった。酒井の回(第6回)の汚穢は、原初技術実践の竹のコップや皿を前に「これ、いいのかな」という問いとして実際に生まれたはずだ。そして第7回の古代メソポタミア──現代的・近代的パラダイムの芽が出た時であり、一度メソポタミアに行き、ステップ地帯の風と、雪解けで洪水になるチグリス・ユーフラテスを見て初めて、文明の起源を体感的に理解できるのではないか。

4. 7回を貫く糸と「語り直す」ための3つの転換24:30–27:00

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24:327回を貫く糸──技術はヒト以前から、遊びと模倣で育つ/技術は身体の外部化ではなく、身体+道具+場の関係/残ったものの歴史は、技術史の半分/ニーズと社会が技術を残し、退化させる/巨大社会の技術開発は、小さな快適さから始まった。
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25:01「語り直す」ための3つの転換──進歩の一本線→連鎖と分岐の網の目/発明物の歴史→身体技法と場の歴史/残ったものの歴史→腐る技術・暮らしの技術の歴史。

四つのジレンマの回収は割愛し、七沢は「語り直すための3つの転換軸」を確認する。①進歩の一本線を、連鎖と分岐の網の目として見る。②発明物の歴史を、身体や場の歴史として組み直す──これは発明の非属人性の話でもある。電話のベルに限らず、発明は同時多発的に起きる(同時発明)。なぜなら発明は無から有ではなく有から有で生まれ、常にあるものから生まれるからだ。いまのAI競争がそうであるように、技術の最先端を皆が追っていて、ぴょこっと頭を出した人が「発明者」になるだけ。昔は競争者が少なかったからエジソンやワットの名が残り、いまは人が多すぎてAIに個人名がつかないだけで、根本は何も変わっていない。何が発明を生むのか──場と身体が生んでいる。③残ったものの歴史を、腐るもの・目に見えなくなるもの・暮らしの技術から語り直す。そこから技術のアンラーンが行われるだろう。

5. 原初技術実践からの報告──森で、身体で確かめた4日間27:00–35:00

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27:00PART 2 原初技術実践からの報告──森で、身体で確かめた4日間。

参加しなかった受講生のために、七沢が映像で解説する。初日の火起こし──相当な体力が要り、火がつくまで4〜5時間かかった。翌朝、残った小さな種火から相馬が火を復活させた瞬間も記録されている。溝をもっと切れば削りかすが落ちて火が起きやすい、という火起こし道具の構造の話も。次に、相馬が割った長野産の黒曜石で、七沢の知人の猟師が獲ったイノシシを解体し、鉄平石で囲った熾火で焼いて食べる。箸も竹や笹でつくる。「めっちゃうまいんですよね」。

stones
28:53石器づくり。石は一つひとつ違い、割ってみないと分からない。

翌日は石斧をつくった。これは危なく、一人が怪我をして「今後は安全管理をちゃんと設計しないと」という話になったが、挑戦できてよかった。人類がこの道具で食っていた時間は長い。その石斧で生木を倒す。「結構僕はびっくりしました」。映像には島田が両足で台石を挟んで「ゴリゴリ」木を切る姿も──基盤使用である。島田は「台石がぐらぐらすると効率がガクンと落ちる。完全に固定できないとダメで、それを自分の身体でどうやるか──自分の身体があって、その物との関係性がある、という当たり前のことに気づいて面白かった」と振り返る。相馬は「僕は山だと地面に刺して挟む。前回は台石が引っ張りだこで固定できなかった」。そして島田の体力に若者たちが「やばい」と畏れ、ゴリゴリやっていると「この動きはゴリラかもしれない」と人間に近い動物のことを思い浮かべる人も出てくる。七沢は西表島のテックキャンプでも、フィールドにいると目つきが変わり、人間以外の動物との境界が溶けていく人がいる、と言う。このあと木の椀を焼いて石で削って成形し、土器で芋を蒸した。

voices
33:53参加者の声|正反対を向く二つ──「身体を使わない方向へ進んだ文明への疑問」と「痛みを減らした技術への感謝」。どちらも第1回の「ノスタルジーの罠」と「四つのジレンマ」の間に立っている。

参加者の感想は正反対の二つを向いていた。「頭をぶん殴られるような体験だった。限界の中の工夫が文明を築いたのかもしれない」──これは「遊びが技術を発展させた」の反対の問いで、両方あるだろう。「火起こしに加わらず作った石器が翌日たまたま役立った」。そして「手の痛み。痛みを減らした技術への感謝」──原始の技術は痛みと怪我を伴う(現代人がやるからでもある)。いまの道具は祖先の知恵の凝縮であり、外側の身体=巣を分厚くすればするほど中はつるつるになっていく。七沢はこういう場面を見るたびに「自分たちは原初技術実践をする最後の数世代なのではないか」と危機感を覚えるが、「今の人たちはまだ全然取り戻せる」とも思う、と言って対談へ移った。

6. 対談①──やってみて、技術史はどう見えたか:ヒーロー、余裕、分配35:00–50:30

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35:14やってみて、技術史はどう見えたか──相馬さんへ「初めての人たちが『あるもので、なんとかする』のを見てどう思ったか」/沓名さんへ「火と素材の専門家として何を見たか」/島田さんへ「チンパンジーと比べて人間の遊びと過剰模倣は森でどう現れたか」。

相馬は、火起こしのヒーローは結局パワーのある人で、産業革命以前はずっとそうだった、と言う。筋力のない人には無力感もあるかもしれない。しかし縄文や原始の良いところは、自分が発揮される場所が他にいくらでもあることだ。石を磨き続ける、木を切る(パワーは要るが弱くてもいつか終わる──火起こしや土器のように0か1ではない)、きれいな石を探す、背景色に紛れた昆虫を見つける。いまならADHDと言われそうな人が、虫を捕らせるとめちゃめちゃうまかったり、狩猟で無類の才能を発揮したりする。いろんな人のいろんな特性が、まったく腐らない。森では、めちゃくちゃいい石を見つけた人が永遠に石を割っていた。たまたま素材に出会って自分の「好き」が見つかる感じは、普段一人でやっていると見えてこない。七沢は、西表島のジャングル・ギャザリングでもいつも同じことを感じる──それぞれの特性に応じて環境から何かを引き出して生き生きと活動しだし、活動が止まる人も寝る人も、その場が吸収してしまう、と重ねた。

島田は「縄文人はジェネラリストだったのか」という問いを引き、人類の集団にゆとりがあるというのは「私はやらなくてもいいか」「いまは別のことをやっていればいいか」と言える状態ではないか、と言う。チェーンソーに上手い下手はあまりない、という受講生のコメントを受けて──誰でも使えるようにする(ユニバーサルデザイン)と、誰でも使わなければならない義務が発生し、全員に責任が分配されてしまう。近代の平等はデザインにも反映し、微妙なアンバランスから生まれる技術の「遊び」が消えている。私たちの身体は不均衡にできていて能力は皆別々なのに、近代は機械によってすべてを平等にする方向へ進んでいる。相馬も、現代で求められる能力は昔より狭い──会社員なら対人コミュニケーション、建設作業員なら長時間外で働けること──に振り切っていて、「現代社会に適応できない」と言われる人は、狭い職能の中で認定を外されているだけではないか、と言う。七沢は「俺のことかとドキドキする」と笑いつつ、人類が経験した中で最も自由だった狩猟採集的な行動の自由を、現代の多様なテクノロジーの中でもう一度実現したら、めちゃくちゃ自由になるのではないか、という自分のテーマを語った。一泊だけだった森で、3泊4泊暮らせば役割が分かれ、それぞれの得意分野とコミュニティの中での誇りが生まれるだろう。

そこから分配の話へ。狩猟採集民は獲物を取ってきた人が偉くならないよう、名声も偏らないよう徹底的に平等にする(ポトラッチ)。相馬は「大きなタンパク質を自分の家族に食べさせたいのに行き渡らせるのは、相当な期間コミュニティで生きていないと生まれない価値観」と言い、島田は「あげても飢えて死なないという前提があり、長い時間軸で見ている」と補う。七沢はジャングル・ギャザリングでは「誰が取った」とならず、お互いにわざわざ感謝することが起きなくなって暮らしが流れていく、個とコミュニティの境界が曖昧になる、と話す。相馬が中山道の古い宿場町に5年住んだときの観察──大雪の日、移住者は家の前だけ、昔からの人は通り全部を雪かきする。リタ(利他)ではなく、その人にとっての「自分の土地」が地域全体なのだ。七沢は、お金を通したものを贈るのは難しいが、畑プロジェクトのように種を撒いて穫れたものをシェアするならお金の感覚から逃れられるかもしれない、と言い、その前提には地域のコモンズの豊かさがある──西表で狩猟採集ができるのも海と浜という豊かなフィールドがあるからで、逆にいま田舎では豊かな森がどんどん空いてきている、と締めた。

7. 対談②──火起こしの技術論:溝は三角に、紐は5〜7ミリ50:30–61:30

沓名への問い──火と素材の専門家として、原初技術実践で何を見たか。「火起こしってあんなに難しいんだ、というのがよく分かった。相馬さんの一つひとつの言葉が、なるほどと分かった」。翌朝いちばん早く起きて、残っていた火種から火が復活したときは嬉しかった。帰宅後、息子が錐をつくると言い出し、自分で火起こし器を誕生させた(うまくいかず泣いていたが)。

ここから4人の火起こし談義が白熱する。木の棒を溝に擦りつけるヒミゾ式はもっと筋肉が要る(相馬は自然のものだけでは成功していない)。摩擦面は三角形にすると、平らにするより力が入り、木くずが溜まらずに落ちてくる。南国の流木のようにまっすぐな硬い棒がない環境では役に立つ。いちばんハードルが低いのは弓錐(ゆみぎり)──ただし太さの均一な「いい紐」が要る(細いと空転する。5〜7ミリ、太いほうがいい)。紐の材料は梅雨時なら樹皮、南の島なら芭蕉やシュロ(「あれが最強」)、山梨の森ならカラムシ──天然のものは背が低く枝が跳ねているので、相馬は自分の森にカラムシを植えている。七沢「じゃあ植えよう」。黒っぽい粉が出ているなら、晴れの日の広場で真昼に日が差していれば、もう行く。「まず諦めずに」。

8. 対談③──過剰模倣と、石の個別性61:30–77:00

島田への問い──人間の遊びと過剰模倣は森でどう現れたか。まず前提として、過剰模倣の研究は幼児に関するもので、人間が過剰模倣をいちばん行うのは生まれてから3歳ごろまでの言語発達以前の時期。論理で考えられるようになると、人の振りを丸ごとコピーするほうがむしろ難しい。だから大人の遊びの中では現れ方が違うだろう。ただ、森で相馬が言っていたように、縄文の技術に限らず様々な技術は一世代では完結せず、個人では培えない。それを吸収するには、何も考えずに周りの人のやることを真似るのがいちばん効率的──完成された文化的な技術のほうに無駄がないからだ。「過剰」という言葉が持つネガティブなイメージ(会社組織に残る無駄な慣習)とは逆に、人類進化の過程で真の模倣が効率的だったのだろう、というのがトマセロらの議論だと思う。

七沢「森でも、石器を割るとき、周りを見ながらなんとなく割っている人が多かったですよね」。相馬は「土器も斧も屋根の葺き方も、見よう見まねでやったほうがいい技術ばかりだが、石はマジで割ってみないと分からない」。群馬の岩宿博物館で日本有数の石器の名人に教わりに行ったが、「ここがいけそう」「ここが気持ち悪い」と言われても意味が分からず、結局やらないと分からなかった。西日本の学芸員とサヌカイトと黒曜石を交換したら、互いに相手の石がまったく加工できなかったという話もある。石に自分の身体を慣らし、ハンマーを選び、自分の割り方がある。「ここをこう打てばこう割れる」とは絶対に言えない世界──一方で、この石がいい・この植物がいい、煮るか叩くかという動詞の選択には文化的蓄積が役立つ。身体的なものと文化的なものの両輪がある。沓名「結晶構造が石の種類によって違い、形も違う」。七沢「石を全部『石』だと見て、草を『草』だと見ている」。相馬によれば黒曜石に詳しい人は沢筋単位で産地を見分ける。

島田は野生動物に話を戻す。あそこへ行けばこういう食べ物がある、ということを彼らはよく知っていて、長年観察していても「お前こんなこと知ってたのか」と驚かされる。自慢もせず教えもしないが、ある個体が知を持ち、それについていくことで集団全体が利益を得る──特にフォールバックフードが必要な危機的状況で「おばあちゃんの知恵」が発揮される。旧石器や縄文でも、一部の人が蓄えた知識がクリティカルになる局面があり、徒弟制のようにマスターについていって目で見て伝承したのではないか。七沢は意識研の森の3本の栗の木──前の持ち主が「最強」と言った大粒の木は去年は不作で、小栗の木のほうが実をつけた──を例に、自然物の豊凶の差を語り、相馬は狩猟採集の行動範囲は山3つ4つを余裕で歩く広さで、どこの木が今年いいかを年ごとに把握し、猿と競争しながら誰より先に採る、感覚値と土地勘の世界だったろう、と言う。「ADHD脳ですよ。森の高いところにいるカブトムシを見つけて取っちゃう人。現代生活では役立たないけど、縄文人のヒーロー」。

9. 対談④──人間は石に取り憑かれたまま:黒曜石、ハンディカム、色77:00–105:00

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77:53対談の様子(左上から七沢・相馬・島田・沓名)。チャットには参加者が撮った立派な黒曜石の写真が共有された。

スタッフが撮った黒曜石の写真を前に、相馬は「めちゃくちゃいい黒曜石。羨ましい」。和田峠の縄文人は川筋ではなく、生活域よりはるかに高い標高1300〜1500メートルまで行って穴を掘り、純粋できれいにハマグリ型に割れる層を狙った。2〜3メートル掘り、何千年も断続的に掘り続けた跡がある。「縄文人は自然のものだけで、と言うけれど、和田峠の黒曜石はめちゃめちゃ産業っぽい。小泉さんの『銀を探して1000キロ』に近いものを感じた」。黒曜石もアスファルトも翡翠も流通し、交易ネットワークになっていた。針やかんざしは黒曜石がないとつくれない──「これがないと」という素材は縄文にもあった。沓名は、有史以降も同じことが続き、近代まで来ると山師──鉱物の台帳「石見表」を持ち、関所を自由に通れた人たち──になる、と言う。物が見れるかどうか、それが近代以前のオリジナリティであり技術の中心だった。相馬は、沢筋で欠片を見て上流へ遡れば鉱脈が見つかる、砂金とまったく同じだ、と言い、七沢が問う。「結局人間は、石に取り憑かれたままなんですかね」。沓名「石がいちばん長続きしてますね。いまは半導体やレアアースという、もっと焼く別のものになっているけど、変わらない。象徴たるものが好きなんです。ラピスラズリも、当時どれだけ希少で、どれだけ輝いて見えたか」。

猿はどうか──島田のハンディカム事件。観察中にポケットから落としたハンディカムを、チンパンジーの子どもが樹上5メートルで遊んでいた。ベルトが外れ、硬い塊に柔らかい紐がくっついた物体は自然界ではまず見つからない。石だけ、紐だけなら遊んだことがあるが、合体したものは初めて。探索して危険がないと分かると、こんな遊び方を「発明」した──紐の端を口にくわえてぶら下げ、足でキックする(手は樹上でふさがっていた)。チャットでは「ぶら下げて口に入れる」「サンドバッグみたい」「サッカー少年がやるやつだ」と盛り上がる。新規な物体に対するチンパンジーのアフォーダンス形成の豊かさと素早さ。落ちてきたハンディカムをめぐってチンパンジーと追いかけっこになり、2回目に回収したという。ピカピカして見たことのない形のものに人類も惹かれただろう、と話は色へ。

森では、子どものころから染料のように遊んだ紫の実(沓名が後で「ヨウシュヤマゴボウ、外来種」と訂正)で染めて棒に巻いた参加者がいて、土と緑しかない世界にマゼンタが入ると「おー」となった。相馬によれば縄文の大事な色は白(骨)・黒(鉄)・赤で、赤はベンガラや漆──是川遺跡の漆器は「先週つくったのか」と思うほど鮮やかで、同じ原料で復元しても赤茶になってしまう。縄文人は「その赤でなければならない」理由を持っていたはずだ。沓名は、黒には炭素のほかマンガンも使われ、日本には緑や青の顔料がなく、赤は鉄で手に入るから、と補足し、日本で色の語彙がいちばん多いのは青(藍のグラデーション)、ヨーロッパは茶や黒系──光の強さと目の色の違いが色彩感覚をつくった、と話す。七沢は「縄文から続くものは生きるのに絶対大事だという勝手な妄想」から、色を大事にすることは生存に役立ったはずだ、と言い、ジャングルで海が穏やかで満月で物が獲れる日にふわーっと幸せが湧いて共同体化する、そこに色や踊りが近いのではないか、と。沓名が応える──色のいいものは、だいたいヤバいもの。毒物は適量なら薬になり、抗がん剤は赤いものが多く、紫草も薬。殿様が額に巻く紫の鉢巻は薬効成分で、奈良時代の経巻は染めてあるので虫がつかないが、江戸時代の米糊の紙は虫に食われる。「色自体に薬効があると信じていたのかもしれない」。相馬「それも形容詞的な話。科学で色と効果が区分けされる前は、色と身体にもたらす意味が不可分で、世界の見え方が全然違っただろう」。

10. 対談⑤──異なる視点を持つ人、弓矢105:00–113:00

スタッフが森で拾ってきた青緑色の木片は「ロクショウグサレキンモドキ」というキノコの仕業だった(沓名「名前がかっこいい。うちの展示に持ってきてください」)。七沢は、典型的なADHD気質で探索の才能のある若いスタッフの話──彼は自慢せず、聞かないと詳しくは言わない。「森に入るとものが呼びかけてきたのに、最近呼びかけてこなくなったと思ったら恋をしていた」。社会に適合しないところのあるそういう才能が森で生きる。意識研の森を、自閉症やADHDの子たちが自然体験で取り戻す場としても使いたいし、そこに異なる「つくる」のあり方が見えてくるかもしれない。地元の秋祭りで竹の弓とチラシを巻いた矢が男の子たちに200本売れた話から、弓矢・飛び道具・釣りへの熱量は尋常ではなく、人間に組み込まれた何かがある。「現代人も弓猟ができるように法律を変える運動しますか」「ロシアにでも行こうかと」──日本は狩猟民族ではないのでハードルが高い、と笑った。

11. 結び──最終課題の予告と、講師4人の「これから」113:00–136:49

残り時間わずかとなり、七沢は「あえてまとめないように話した」と言い、最終課題を予告する。①日常の中で自分がやっていることを取り出し、技術的な起源からそれを取り直す。②形容詞で捉え直す──相馬の話から立てた問いだが、4人で「時計を形容詞で捉えたら」と話したところ、機械は形容詞ではなく動詞だろうということが分かってきたので、形容詞か動詞で問い直す。これらを選択制にし、③として自由に問いを立てて考える。正式版は後日案内する。

そして4人それぞれに「日々の実践の中で、この学びをどう生かすか」。七沢──相馬の縄文へのストイックさに花開いたものがあると分かった。山梨のフィールドで、石斧など自分がやってこなかった技術を開かなければ。「しばらく相馬さんリスペクトでいく」。相馬──「いつまで一人でやってるんですか、村人いるでしょ」とずっと言われてきたが、一日石を磨いて終わるような暮らしを面白がってくれる人がいたので、やることは変わらないが仲間を見つける可能性ができた。過剰模倣が気になるのは、人間の技術が一人では導き出せず、やる前には意味が分からないものにあふれている中で、模倣がめちゃくちゃ効率的な革命的進化だからだ。しかしそれが効くには前の世代がやっていなければならない──火起こしの近道は自分の父親が火起こしをしていることなのに、縄文の暮らしをしている人はいない。一度ぶった切られた文化を復活させるには、遠回りでも「一人の縄文人的な人」を生み出すほうが大事。フィールドに通い、石の声・森の声が聞けるような存在になりたい。島田──どの回も楽しかったし、自分の体を動かしてやってみることが理解の近道だと確認できた。技術の話を日常に生かすという観点より、そういう世界があると分かっていること自体で、もう豊かになったのではないか。この先何があっても「まあいいや、森に行けばいいや」というセンス、森でパワーをもらって日常に復帰する連環がイメージできれば、それは豊かだ。そういう仲間と場所をずっと探してきた──森が多ければ多いほど、心の中の森が豊かになると信じて続けていく。沓名──過去があって今があるという話が、島田の回から全部つながっていた。学生の皆さんには、過去を見ることで選択肢が増える──知らないで考えるより知っているからこそ考えられる力が増える──ことを伝えたい。多様性を豊かに持っているからこそ選択肢が生まれる。人間は地球の上で生かされている。日本という国が自然の豊かさを享受し循環型社会をつくってきた過去を見るなら、「日本人だからできる」と思ってもらえたらいい。メソポタミアは文明によって世界を変え、木をなくしてしまった場所であり、イギリスのクマは絶滅している。日本が多様性のある社会をいまも享受できているのはすごいことだ。

最後に受講生の問い──縄文人はある意味であらゆるものを資源化する達人でもあったのではないか。自然と共生できたのは精神性だけでなく、集団スケールが小さく、自然を大きく改変する技術を持っていなかったからではないか。七沢は「その通りだと思う。なぜなら私たちはまさにそうなっている」と答える。技術のスケールが大きくなり自然を改変していく現代の流れは止められない。だから流れの中から、流れの向きを変える──これがmakers Unlearnでずっと言っていること。その流れの中で精神性のあり方はいかようにも持ちうるし、縄文の精神性が参考になる。相馬は補う。縄文人は堅果類の土器をつくるとき窯を受け入れず、東北では一度入った稲作がなくなった痕跡もある。メソポタミアで都市が生まれていた時代、日本の広い国土に都市が一つもできなかったのは、縄文人のメンタリティがそういう価値観になかったからで、彼らは資源だとは思っていなかった──石の力を借りて石器が生まれ、草の力を借りて服ができるという価値観。『風の谷のナウシカ』の冒頭、腐海で王蟲の抜け殻の目を「何かに使えるかもしれない」と切り抜く。他の国は腐海を燃やそう、限られた土地を奪おうとする。私たちは縄文人よりナウシカの世界に近いが、使い方を忘れてしまった一個の石や名前も分からない木を、実際に切って触ってみるところから暮らしに役立てることが、彼らの価値観に近づく大事な一歩ではないか。七沢は、トルメキアも腐海に支配された状態であり、その内側から越えていくとはどういうことか──それはmUの継続した問いだと言い、自分は現代ならそれをAIの中に見出すしかないと考えている、と述べる。AIは何なのか、なぜうまくいくのか誰も分からない。入力に対するアウトプットが分かっていたこれまでのテクノロジーと根本的に違い、未知のもの──エイリアン──になった(「エイリアン論法」)。自然物やマテリアルの本当のポテンシャルも誰も分かっていないのと同じだ。テクノロジーが人間から「より消費したい、より効率的に」を引き出してきたのに対し、AIが何を引き出すのかは分からない。だからこそ揺れている転換点で、技術史をさらって異なる未来を見ることに意味がある。「ここら辺はずっと今書いている本に書いているので、予告ということで」。

「この4人でコラボレーションするのが名残惜しい」。来年のmUでは技術史という科目は形を変えるかもしれないが、この4人の講義は継続してつくりたい──「受講生の皆さんも最終課題、頑張って回答してくださいね」。予定を17分ほど超えて、技術史の全8回が終わった。

SUMMARYまとめ──最終回を貫いた6つの線

  1. 技術は身体と切り離せない基盤使用の台石がぐらつけば効率は落ち、石は割ってみないと分からず、同じ黒曜石でも沢筋ごとに違う。「石」「草」という名詞で見ているものは、一つひとつ別のものだ──第3回の「形容詞で捉える」は、最終回で「機械なら動詞で」へ展開した。
  2. 遊びと余剰が技術を育てるチンパンジーは暇だからアリを釣り、技術は生存に関係のないことへの全振りから発展する。「私はやらなくていいか」と言える集団の余裕こそ豊かさであり、誰でも使えるデザインは誰もが使う義務を全員に分配してしまう。
  3. 過剰模倣は、文化の知恵を丸ごと受け取る効率的な仕組み一世代では完結しない技術を吸収するには、無駄に見えることまで真似るのが最も効率的──完成された文化のほうに無駄がないから。だが一度ぶった切られた文化を復活させるには、遠回りでも「一人の縄文人」を生み出すしかない。
  4. いろんな人の特性が、腐らない火起こしのヒーローはパワーのある人だが、石を磨く人、虫を見つける人、高い木のカブトムシを取る人にも場所がある。現代で「適応できない」とされる人は、狭い職能の中で認定を外されているだけかもしれない。森はそれを取り戻す場になりうる。
  5. 人間は、石に取り憑かれたまま和田峠の黒曜石採掘は産業であり、山師は石見表を持って鉱脈を追い、いまは半導体とレアアース。色のいいものはヤバいもの(毒=薬)で、縄文の赤は「その赤でなければならない」赤だった。象徴たるものへの執着は、旧石器から変わっていない。
  6. 流れは止められない。流れの中から、向きを変える縄文人が自然と共生できたのはスケールと技術が小さかったから──その通りで、私たちはまさにそうなっている。縄文人は資源ではなく「力を借りる」と見ていた。使い方を忘れた石や木に触れることから始め、未知のもの(エイリアン)になったAIが何を引き出すのかを、技術史を携えて見ていく。

APPENDIXチャット付録──受講生の声(匿名・要約)

講義中のZoomチャットから、個人が特定されない形で主な反応を要約する。原初技術実践の参加者からの実感のこもった書き込みが多かった。

  1. 石器も使ってみると、握るフォーム・ねじ込むフォームなど、効率よくできる形が本当にちょびっとだけあって、それを見つけるのが面白かった。帰ってから腰と背中が痛くて、「椅子ってものすごい発明なんだ」と思った。
  2. 木を切るのがいちばん面白かった──スイングのフォームがバチっとはまると、パワーがなくても切れたから。道具がロースペックだからこそ工夫で挽回できるのがグッとくる。チェーンソーに上手い下手はあまりなさそう。
  3. 手がボロボロになった。その辺で拾った石で本当に切れるんだ、となった。昨日のことのように思い出される。
  4. 「誰でも使える道具」の話に対して──障害者雇用やリタイア後採用も、全員が同じように会社で働かなければならない方向に向かわせていないか。対面だと、疲れている人・いま動けない人・その作業に向いていない人をカバーする速度が速い。集団の人数が増えすぎると、それをキャッチして助けたり代わりにやったり(お金を給付したり)するのにラグがありすぎる。
  5. 道具が標準化されると、人間も合わせて標準化しないといけないのか。一緒にいる集団の利益が大きくなると自分の利益も大きくなる、という感じがする(贈与と支配の関係)。集団スケールに対する資源の量がネックになる。
  6. 火起こしについて──黒い粉まではできるのに、そこからが行かなくて悔しい。火口(ほくち)が奥深い。ススキのモフモフでは不十分だった。帰ってきてからも散歩中にススキや乾いたフワフワの植物が輝いて見えるようになった。自分でやらないと掴めない部分がありすぎる。
  7. どれくらいの行動範囲があると、植生が道具の素材集めに良くなるのか気になった。年に1回しか知見が溜まらないこと(今年の栗は様子が違う、など)を昔の人はどう覚えていたのだろう。
  8. スタッフが撮影した大きな黒曜石の写真が共有され、「すごい大きさ、かっこいい」と反応が集まった。島田のハンディカムの遊び方当てクイズには「ぶら下げて口に入れる」「サンドバッグみたいな動き」「サッカー少年がやるやつだ」。
  9. 今思うと原初技術実践は働きすぎた、もっと遊べばよかった──でも仕事が遊びみたいでもあった。発色を出すのが大変で希少だったから色に魔力が宿ったのに、いまはあらゆる色を簡単に出せる。
  10. 縄文人はある意味であらゆるものを資源化する達人でもあったのでは。自然と共生できたのは精神性だけでなく、集団スケールが小さく、自然に大きな影響を与える技術を持っていなかったからでは──この問いは終盤に七沢と相馬が取り上げて応答した。終了時には「続編希望です」「この線は何本も引けそう」。
本レポートは、講義アーカイブ動画の自動文字起こしとスクリーンショットから生成したまとめです。発言の要旨は文字起こしに基づき編集していますが、細部のニュアンスは実際の講義動画をご確認ください。受講生の氏名・発言は匿名化しています。