OVERVIEW概要
技術史の第7回は、メソポタミア考古学者の小泉龍人さんによる「都市の起源/国家の形成と技術」。副題は「メソポタミア周辺の冶金、車輪、文字」。七沢の問いかけは、よく言われる「5000年の都市化の歴史」は、そもそもどのように始まったのか。文字や制度、大規模な自然の改変をともなう技術、つまり私たちが日常的に使っている「テクノロジー」というあり方は、古代メソポタミアで始まったとよく言われる。小泉さんは、自分で掘り、科学分析にかけ、トルコで実際に窯をつくって焼いてみる考古学者の目線から、焼き物と金属という「火の技術」を手がかりに、村から都市へ、都市から国家への道のりをたどった。
話は「土偶は土器より古い」から始まる。西アジアで土器が現れるのは約9000年前。約7500年前に始まる都市化(ウバイド文化)は、無人の平原に移り住んだ人々が水回りを整え、快適な空間をつくることから始まった。人々は舟で銅を運んだ。約6000年前に海面が上がって塩害が広がり、畑を失った「よそ者」が豊かな集落へ移住する。よそ者のなかでよからぬ考えをもつ「ならず者」対策として、集落は壁を築き、余剰食料の倉庫にドア封泥という「鍵」をかけ、その印章を持つ人が指導者になった。都市的集落に人口が集住し、高まる食器の需要に応えるべくロクロによる大量生産が始まった。ロクロ盤を縦に起こすと車輪になり、ロバの家畜化と合わさって陸路の交易が開ける。5300年前、最古の都市ウルクが誕生すると、その支配者は銀を求めて1000キロ離れた北シリアにもう一つの都市をつくった。
都市ができてから、帳簿のメモ書きとして絵文字的な記号が生まれる。まもなく都市国家が並び立つと、記号は音を写す楔形文字へ育っていった。アッカド語を話す「よそ者」の名前をシュメール語で書き表すための、明治の当て字のような工夫である。銀は重さで価値を測る基準になり、やがて「銀のリング」が貨幣として限定的に流通する。それが神殿ではなく宮殿に保管されていたことは、聖から俗へのシフトを物語る。銀で錫を手に入れて青銅の武器をつくり、陶器、タイル、鉄へと進む。重要な発明は都市の誕生後に集中しており、小泉さんの結論は「都市は技術開発の実験場だった」。質疑では、洪水と神殿、銀本位と金本位、税、専業化と管理、そして5000年前からの「移民問題」まで話が広がった。
CONTENTS講義の内容
1. オープニング──「5000年の都市化の歴史」はどう始まったのか0:00–4:20
全8回の技術史も第7回。七沢は、技術哲学で繰り返し話してきた「テクノロジーは西洋近代に誕生した一つの技術のあり方である」という話と、技術史で見てきたチンパンジーの技術や縄文の豊かな技術を振り返った。そのうえで、文字や制度、大規模な自然の改変をともなう技術は古代メソポタミアで始まったとよく言われる。「5000年の都市化の歴史」を乗り越える、異なるパラダイムに転換する、といった言い方もされる(mUではそれを「未開の未来」と呼ぶ)。惑星的危機のなかでこれを考えるのは必須の課題だが、この5000年の歴史がどのように始まったのかは、たぶん誰も分かっていない。それを知るために、メソポタミア考古学の第一人者である小泉さんを招いた。
2. 自己紹介と研究スタイル──掘る、分析する、焼いてみる4:20–10:50
小泉さんはもともとインダス文明を志していたが、1980年代に初めて行った海外の現場がシリアで、そのままメソポタミアに「はまって」しまったという。最近はトルコで実験考古学に取り組み、国内では大学で教えつつ、NPOで市民向けの歴史教育の普及に携わっている。講義は5章構成。村で発明された土器、銅がもたらした都市化、ロクロと銀が生んだ都市、都市国家で開発された文字と青銅、技術変遷と社会変化。舞台は西はエジプトから東はアフガニスタンまでのオリエント世界で、その真ん中、現在のイラクの大部分にあたるのがメソポタミアである。
研究の目的は、世界最古とされるメソポタミアの都市文明を考古学の目線で解明すること。とくに都市形成期の焼成技術(パイロテクノロジー)に注目し、その復元を通じて都市誕生の背景を「やきもの」の目線で可視化しようとしている。方法は三本柱。①自分で発掘して、本来の位置にある考古資料(とくに彩文土器)を手に入れる。②それを選び出して、科学分析を専門家に依頼する。③分析結果をもとに専門家と議論しながら、復元実験で検証する。掘って、分析して、焼いてみる。このループには終わりがなく、「体力が続く限り回り続ける」のだという。
実験考古学は数十年来の取り組みである。最初は多摩川の河原で野焼きをしていたが、日本は湿気が強すぎてうまくいかなかった。10年ほど前からはトルコのアナトリア考古学研究所の敷地を借り、自分で掘った7000年前の土器の作り方を再現している。粘土紐を輪積みし、ロクロではなく回転台の上で形を整える。窯に使うレンガは、近くの村の廃屋から譲ってもらったり、自分たちで作ったりした。
3. 村で発明された土器──土偶は土器より古い10:50–19:00
技術史の出発点は、火を使ったテラコッタ(焼き物)。イスラエルの遺跡では約80万年前の炉の跡が見つかっている。焼けた石が組まれていただけでなく、薪にした野生のオリーブやブドウの枝、生木も一緒に出ていて、人が意図的に火をつけたり消したりしていたと認められた。人類が類人猿と分かれた700万年前からすると、火を使いこなすまでにはかなりの時間がかかっている。
世界最古のテラコッタ製品は、約2万6000年前のチェコの女性土偶だ。動物の土製品も出ているが、人の像は女性ばかりで男性は一つもない。焼成温度はおよそ500〜800℃で、ちょうど縄文土器のような素焼きの温度帯にあたる。西アジアでも、麦の栽培化が始まった約1万1500年前の先土器新石器時代に、土器より先に女性土偶が焼かれていた。ヨーロッパと西アジアの最初のテラコッタは土偶で、しかも女性だけで、土器よりも古い。
世界のやきもの略史では、最古の土器は日本ではなく中国の仙人洞遺跡にあり、約2万年前のものだ。日本列島ではそれから4000年ほど遅れて、約1万6000年前の大平山元遺跡(青森県)などで縄文時代草創期の土器片が見つかっている。約1万2000年前には西アジアで女性土偶が出て、ほぼ同じ頃に日本でも縄文の土偶が現れる。アジアの東と西で同じ頃に土偶が出てくる理由は分かっていない。小泉さんは「面白い研究テーマ」と言う。西アジアで土器が現れるのは約9000年前で、日本よりかなり遅い。その後、約8000年前に特殊な構造の窯が開発されて彩文土器が焼かれる。約5500年前、都市ができる直前には、日常の食器を一度に大量に作る需要に応えてロクロ盤による水挽き成形が生まれた。これはメソポタミアの発明である。さらに約4300年前、アッカド王朝のもとで高温で焼き締めた炻器(ストーンウェア)が、約3600年前には北シリアのミタンニ王国で釉薬をかけた陶器が登場する。白磁は1500年ほど前の中国になる。
4. 定住、犬、麦、家畜──西アジアにおける諸発明19:00–24:30
やきものの話の前に、古環境に沿って人々の発明を振り返る。約1万4700年前、急速な温暖化が進む時期(ベーリング・アレレード期)に、一部の集団が定住を選んだ。人より先に野生の小麦と大麦が反応して分布を広げたので、人々はその麦畑のそばに腰を落ち着け、いつ収穫すれば無駄がないかを学ぼうとしたらしい。定住すると、動物との関係も変わる。移動生活なら狼の群れとは互いに避ければよかったが、動けなくなった人間は親の狼を倒すしかなく、残った子どもの狼をペットとして飼ううちに番犬になった、と研究者は考えている。イスラエルで見つかった約1万4000年前の墓では、屈葬された人の頭の先に子犬が埋葬され、その脇腹に人の左手がそっと添えられていた。最古級の「ワンコ」の埋葬例だ。
その後、ふたたび寒冷化が訪れる(ヤンガードリアス期、約1200年間)。人口が増えていたのに麦が採れなくなったため、一部の人々が野生の麦の品種改良に取り組み、栽培化が始まった。ただし野生種から栽培種への移行には少なくとも1000年かかったらしい。生活にゆとりができた約1万年前には、おとなしいヒツジやヤギが家畜化され(牧畜)、500年後にはイノシシや野生のウシのような手強い動物も家畜化される。とくにウシの家畜化(約9500年前)は、農業と牧畜を組み合わせた混合農業が確立したタイミングとされ、ほぼ同じ頃に粗製の土器が、少し遅れて彩文土器が作られていく。彩文土器を焼く窯は上下二部屋に分かれた昇焔式で、約8000年前にメソポタミア周辺で開発された。
5. 土器は何のために、どうやって作られたのか24:30–27:50
西アジア最古級の土器は、直径20センチほどの小型で半球状の無文の鉢が中心で、厚手で鉱物の粒を含み、表面を軽く磨いてあるものが目立つ。こうした器形も含めた当初期の土器を何に使ったのかについて、いちばん人気があるのは液体を温める煮沸用という説だ(トルコの土鍋料理ギュベチのような)。ほかに、ウシの家畜化とほぼ同時期であることからチーズやバターなど乳製品の加工のためという説などがある。最近では銅を製錬するための坩堝だったという可能性も出てきており、どれが本当かは、まだ議論が続いている。
作り方については、小泉さんに自説がある。初めて発掘したシリアの現場(約8000年前の村)の家の壁は、レンガではなく泥壁だった。床の上に泥を一段積み、乾いたら二段目を積む。現地のアラビア語で「タウフ」と呼ばれるこの作り方で、高さ1.5〜2メートルの壁ができる。目地のない一本の巨大なレンガを部屋の一辺に置くようなものだ。この積んでは乾かす作り方がヒントになって、粘土紐の輪積みの土器が生まれたのではないか。実験考古学で実際に粘土紐を積んでいる身としての実感でもある。
6. 銅がもたらした都市化──快適な空間づくり27:50–34:50
第2章から舞台は金属へ、そして都市化へ移る。メソポタミアで都市化が始まったのは約7500年前。ちょうど2000年以上にわたって気候が快適だった時期(ヒプシサーマル、気候最適期)と重なる。その前半がおよそ1500年続いたウバイド文化だ。定住、農耕、牧畜が生まれたのはメソポタミアの中心から少しずれた周辺の丘陵地帯で、そこにいた人々が何らかの理由で、無人のシュメール平原へ開拓にやってきた。誰もいない土地で暮らすにはいろいろな工夫が要る。小泉さんは、この「快適な空間づくり」こそが都市化だと捉えている。
いちばん分かりやすいのは水回りだ。カビだらけでジメジメした場所を不快に感じるのは、古代メソポタミアの人も同じだった。7000年前の遺跡では、住居を建てた後に、空き地に排水施設を設けている(建物が先、水回りが後)。集落の端に溝を掘ったり石を敷いたりして、こもりがちな湿気を外へ逃がしてもいた。小泉さんがトルコで掘った遺跡では、目の前に川があるのに住居から井戸が出てきた。今の村人と同じように、川の水を生では飲まず、井戸水を上水として使っていたらしい。神殿もまた、神に祈る場であると同時にコミュニティの人間関係を円滑にする場であり、ある意味で快適な空間づくりの一つだった。
ウバイド文化の集落には、あまり規則性がない。神殿の前に一般の住居が建ち、その端に土器を焼く窯があり、祀る場所、住む場所、作る場所が溶け合っていた。ところが都市化後半のウルク文化になると、建物の外壁が直線状にそろう集落が現れる。まず街路をつくり、それに沿って区画を分け、目的別の建物を計画的に建てていった。図面そのものは残っていないが、明らかに街づくりのプランがあった。ランダムな配置から計画的な配置へ。これが都市形成期の前半と後半の大きな違いである。
7. 舟で運んだ銅──地形に応じた三種類の舟34:50–43:00
7000年前の物流は舟が担った。勾配が緩く平坦なユーフラテス下流や当時の海岸付近では、長さ20センチほどのテラコッタ製の帆掛け舟の模型が出ている。舟底にはマストを立てる穴があり、舳先には索を掛ける工夫まで表現されている。勾配の急なティグリス上流では、今でもエンジン付きの船でなければ遡れないため、物資を積んで川を下るだけの桶型の舟が使われたらしい。勾配が両者の中間の地域では、観光地の池で乗る手漕ぎボートのような舟で頑張って遡上した。地形の違いが物質文化の違いを生む分かりやすい例である。
ウバイドの人々が舟で運んでいたのは、どうやら銅だった。銅鉱石はタウルス山脈の南東部やザグロス山脈の西側、つまりメソポタミア平原とアナトリア・イランの境目に集中している。自然銅の利用は古く、約1万2000年前のシャニダール洞窟でペンダントが作られている(ネアンデルタール人の墓で有名な遺跡だが、こちらはホモ・サピエンスの時代)。約1万1000年前のトルコのチャヨニュ遺跡では、自然銅を鍛造した錐が見つかっている。鉱石の加熱・加工を試みた実験的な製錬銅については、去年分析結果の発表されたグレ・フッラ遺跡の1万年前の層から最古級の製錬銅製品が出ているが、高温で加熱されてガラス化した土塊が原位置で出土していないなど、「もう少し研究の行方を見守りたい」とのことだった。
8. 気候変動が生んだ「よそ者」──壁と鍵43:00–53:00
第3章、都市形成期の後半(ウルク文化)が始まる約6000年前に、気候の変化があった。温暖化で陸氷が溶ける速度が増し、海水面がさらに上がったのだ。ペルシア湾の海底ボーリングにもとづくグラフでは、1万8000年前の海面は今より100メートルも低く、そこから右肩上がりに上昇して、6000年前には現在よりも数メートル高くなった。日本ではこれが縄文海進で、関東の集落と海岸線が近づき、貝塚が多く残された。だがアジアの反対側では深刻な問題が起きた。塩害である。雨の少ない南メソポタミアは、川から水を引く灌漑農耕地帯だ。下流の海面が上がると灌漑がうまく働かなくなり、畑の麦が一本、二本と塩で枯れていく。そこで暮らせなくなった農耕民は「よそ者」として、塩害の影響が少なく、倉庫に余剰食料を蓄えた豊かな集落へ移り住んだ。この人の動きが都市化に拍車をかけた。
人が動くと、まず壁ができた。「あの集落に行けば食い物があるから襲っちまえ」という「ならず者」が現れたからだ。壁が出てくるのは約6000年前で、海面上昇のタイミングと一致する。最初は幅2メートルほどだったが、700年かけて改良され、5300年前の都市遺跡では幅3メートルを超え、14メートル間隔に見張り塔が並び、立派な市門を2か所備えた城壁へ発展した。そして壁の内側で、先ほどの計画的な街づくりが始まる。
計画的な建物の一つが、鍵付きの大型独立倉庫だ。大きな集落で共存を許された「協調性のあるよそ者」も、価値観が違うのでトラブルが起きる。悪気がなくても、持っていってほしくないときに余剰食料を持っていってしまう。そこで鍵をかけて管理することになった。ただし現代の鍵とは違うドア封泥という仕組みだ。回転式の木の扉に穴を開けて紐を通し、壁に打ち込んだ杭(ペグ)に巻きつけて縛る。結び目に柔らかい粘土を貼り付け、乾く前に印章を押す。遺跡からは、表に印影、裏に縄目の跡が残る封泥が見つかっている。研究者はいまでは「単なる泥ではない」と、必ず遺物として取上げる。
この印章を持つ人物が、コミュニティの指導者になっていったらしい。文字どおり「鍵を握っていた」人物である。前半のウバイド文化では、倉庫に鍵はかかっておらず、オープンアクセスだった。皆が知り合いで、同じ出身の者同士だったからだ。小泉さんの実家(三重県津市)では、両親は鍵をかけずにそこらじゅうを歩いていたが、都会ではコンビニに行くときでさえ鍵をかける。隣に誰が住んでいるか分からないからだ。そういう「世知辛い世の中」が、数千年前のメソポタミアで始まっていた。封泥は石で叩けば簡単に割れる。勝手に開ければ犯人探しが始まって厳罰に処される、とあらかじめ周知しておくことで抑止効果を持たせたロッキングシステムだった。倉庫のそばの広場からは、容器の口を縛った封泥がたくさん見つかっている。遠くから運んできた容器の封を壊し、中身を取り出して物々交換をしていたらしい。封泥の土を分析すると、1000キロも離れた特定の地域にしかない成分も確認された。約5500年前、メソポタミアでは長距離交易が始まっていたのだ。おそらく世界で最も古い「市」の例だという。
9. ロクロ盤から車輪へ──陸路の交易ネットワーク53:00–58:30
なぜ遠くから物を運べたのか。車輪が発明されたからだ。土器づくりにおいてウバイド文化の遺跡で見つかるのは、軽い回転式の作業台(回転台)で、ロクロ盤ではない。約5500年前に都市的な性格をもつ集落に人口が集住すると、同じ食器を一度に大量に作る需要が高まり、重く、遠心力で土の塊から器を挽き上げるロクロ盤が生まれた。これを縦に起こせば車輪になる。食器の大量生産のために生まれた技術が、車輪へ転用された可能性は十分に高い。ほぼ同じ約5500年前に、車を引くロバが家畜化されたことも獣骨の分析で分かっている。車の模型やロバの模型(子どものおもちゃのような)も同じ頃に現れる。
ウバイドの舟の物流は、川筋に沿った南北方向に限られていた。銅を手に入れるのがおもな目的であったと考えられている。ところが約5500年前、ウルク文化の後半になると、車輪とロバによって水系をまたぐ陸上ルートが開かれ、東の方からラピスラズリ、錫などが運ばれてくる。都市が誕生する約200年前のことだ。こうして資源と富がシュメール地方に集中し、まもなく都市が誕生する。都市誕生の背景は、都市を成り立たせる富がどう集まったかとセットで考えるとよい、と小泉さんは言う。
10. 銀を求めて──最古の都市ウルク58:30–60:50
シュメール地方で都市が誕生したのは5300年前。間を置かずに、1000キロ離れた北シリアにも分身のような都市がつくられた。その理由は銀である。ウバイドの人々が持ち帰った銅鉱石のそばには鉛の鉱石も分布していて、知らず知らずのうちに手にしていた。メソポタミア周辺の銀は塊で埋まっているのではなく、鉛の鉱石に微量に含まれている。銅だと思って坩堝で溶かしたら、何かキラキラ光るものが出てきた。それが銀との出会いだったのだろう。北シリアのハブーバ・カビーラ南遺跡では、土器を焼く工房と並んで冶金工房があり、鉛を吹き分けて銀を取った後のリサージ(滓)が大量に出た(かつてのウバイド文化と異なり、排水施設が先、建物が後となり、「快適な空間づくり」が完成)。分析するとタウルス山地の特定の鉱山の白鉛鉱だった。工房のそばには波止場もあったらしい(ドイツ隊の発掘)。ユーフラテス川を下れば、本家のウルクに直結する。ウルクの支配者は銀を手に入れたくて、原料へのアクセスと運搬の便を考え、こんな遠隔地にもう一つ都市をつくったのだ。
最古の都市ウルクは当初250ヘクタール、やがて400ヘクタールに拡張した。重要なのは、この街で世界最古の文字のルーツが発明されたらしいことだ。ドイツ隊の発掘で、絵文字的な記号が記された粘土板が5000点以上見つかった。他の遺跡とは桁が二つ違う。しかも当初、メソポタミアの神々の最高位にいた天空神アンが街の主神として祀られ、まもなく性愛と戦いの女神イナンナも祀られた。この別格の街が、おそらくメソポタミア最初の都市だと多くの研究者は考えている。この街の王ギルガメシュの名を冠した叙事詩の洪水の話は、旧約聖書のノアの箱舟の元ネタになったとされる。
11. 文字の誕生──メモ書きから文字記録システムへ60:50–77:40
第4章は文字。約5200年前までに、ウルクの街で絵文字的な記号が発明された。順番は都市が先、記号が後である。記号は1200種類以上あり、いずれも線で描かれた図形だ。たとえば5200年前の粘土板は長いほうで3〜4センチ、名刺より小さい。左に並ぶ小さなお椀形の印が数字の1を表し、その隣にビールの入った壺、羊または子牛、監督官のサインがある。「ビールの壺1つ、羊(子牛)3頭を確かに納めた」という経済的な記録文書だ。家畜の頭数、奴隷の人数、穀物の量、土地の面積といった忘れてはいけない情報を、表語文字(ロゴグラム)で書き留める備忘手段、つまりメモ書きだった。
約5100年前(ジェムデト・ナスル期)になると状況が変わる。それまでウルク一つだけだった都市が、シュメール地方に20前後相次いで現れ、都市を中心とする国家になった。この頃、葦のペンの先端がくさび形になり始める。国家が並び立てば「ここからここまでが俺たちの縄張りだ」と主張し合い、境界石が必要になる。国家は自国と他国があって初めて成り立つものであり、シュメールの都市国家は競い合いながら国家という形態を立ち上げ、維持していった。人々は、都市国家の主神を祀る神殿の輪郭線をもとに、自分たちの街の記号、いわばロゴマークを作った。ウルクの白色神殿は、前の時代の神殿の瓦礫を固めた台形のプラットフォームの上に建っている。その横からのシルエットが基本形になり、そこに街ごとの記号が加えられた。冒頭で小泉さんの背景に映っていたジッグラトの街、ウルの記号もその一つで、やがて楔形文字へ発展していく。
都市国家の中心には、物も情報も人もますます集まる。ビールの壺がいくつ、羊が何頭といったメモ書きでは足りなくなった。いつ、どこで、誰が、何を、どうしたのか。単数か複数か、過去か現在か未来か。正確に書き残さなければ他人に伝えたり、後で検索することが難しい。そこで話し言葉の音を文字にしようという表音化が始まる。シュメール語は日本語と同じく、てにをはに当たる格変化をもつ膠着語だ(「日本人のルーツはシュメール人」という話は面白いが、学問的には厳しい)。こうして、単なる備忘手段だったものが意思伝達手段、文字記録システムへ発展していった。
ここにも「よそ者」が関わる。シュメール語を話す人々の都市社会に、セム系のアッカド語を話すアッカド人が入ってきた。協調性があったので一緒に暮らすようになると、シュメール人は、よそ者の名前や出身地といった固有名詞を自分たちの文字で書き表す必要に迫られる。記号が本来もっていた意味はどうでもよくなり、音だけが重要になる。江戸末から明治初めに外国の国名や人名を漢字やカタカナで書いた当て字と同じ現象だ。表意文字から表音文字へのシフトを経て楔形文字が完成するのは約4600年前。最初の記号から600年かかっている。村では生まれえない、都市ならではの発明だった。
文字のさらに前にはトークンがある。約1万年前、ちょうどヤギやヒツジの家畜化が始まった頃に、何頭飼っているかを忘れないための記憶補助装置として、単純な形のプレイン・トークンが生まれた。幾何学形が多く、長さ2センチほどのゲームの駒のような、たいてい焼いていない粘土である。ウルク文化の後半には、表面に刻み目があったり、見るからに壺の形をしていたりするコンプレックス・トークンが出てくる。アメリカの考古美術学者シュマント=ベッセラの説によると、単純なトークンは粘土に押し付ければ形が写るので数字の記号になった。複雑なトークンは押しても写しきれないので、それを見ながら葦のペンで描いたのが絵文字的な記号の起源になった。小泉さんも「これは有力な説」と言う。牛の記号は、最初は直線と曲線の組み合わせだったが、90度左に回転し、曲線が落ちて直線だけの楔形文字になる。完成した楔形文字の粘土板の例として、大英博物館所蔵の『ギルガメシュ叙事詩』第11書板(年賀状ほどの大きさ)が紹介された。ウトナピシュティムがエア(水・知恵の神)から洪水を告げられ、箱型の舟をつくって家族、船大工、野原のすべての動物たちを乗せる。ノアの箱舟の元ネタが、この小さな粘土板に刻まれている。
12. 銀のリングと青銅──聖から俗へ77:40–85:10
都市が誕生した段階では、銀は都市の支配者が独占していた。都市国家の段階になると、文字記録に「銀の倉庫」が現れる。5000年近く前には、物々交換で銀が価値を測る基準になっていた。あくまで重さを基準にしたものだ。紀元前2300年頃までには、シュメール語でhar、アッカド語でšewerumという言葉が現れ、楔形文字の研究者は「銀のリング」と訳してきた。メソポタミアを初めて統一したアッカド王朝の時代に、銀が一種の通貨(秤量貨幣)として限定的に流通したのである。現物が分からなかったが、北シリアのテル・ブラク遺跡で、床下に埋められた器の中から指輪形の銀のリングがじゃらじゃらと見つかった。へそくりか隠し財産か、4000年以上眠っていたものだ。
重要なのは、どこに保管されていたかだ。メソポタミアには都市を神の街と捉える伝統があり、王は神から支配の権利を譲り受けた。それほど神殿の意味は大きく、街の記号の基本形にもなっていた。ところがアッカド王朝時代のエブラ遺跡では、この大事な銀は神殿ではなく宮殿に保管されていた。神に仕える神官のような人物ではなく、宮殿にいる世俗的な王が最終的な意思決定者になっていたことを示している。聖から俗へのシフトだ。考古学は「どこに何があるか」にこだわる学問だからこそ、こうした姿が見えてくる。
都市国家段階になると、戦争用の武器が開発される。それが青銅(ブロンズ)だ。銅に1割ほどの錫を混ぜるが、良質な錫はメソポタミアの東、現在のイランとアフガニスタンの国境あたりに限られる。ロバが引く車で陸路が開けていたので、錫はインゴットの状態でラピスラズリと同じルートを通って支配者のもとに届けられた。王は灰吹きで得た銀で商人を雇い、隊商の護衛に銀を支払って錫を手に入れ、近場の銅と合わせて最新の青銅の武器を作ったと考えられる。紀元前3千年紀前半のシュメール地方では、国の存亡をかけた戦争がずっと続いていた。「倫理的にどうなのかというところはあるが」、武器の開発は新しい技術の開発と表裏一体だった。
13. 技術変遷と社会変化──陶器、タイル、鉄85:10–95:30
最後の章では、陶器と鉄にも触れた。土器は低温で素焼きした焼き物、陶器は釉薬をかけて素焼きの後に1350℃以上で本焼きし、釉薬がガラス質の膜となって光沢を放つものだ。西アジアでは紀元前2千年紀の中頃にミタンニ王国が陶器をいち早く開発した。その背景には、直前に編み出されていたコアガラスの技法(粘土で芯をつくり、溶かしたガラスの棒を巻きつけて器を形づくる)があったらしい。陶器は支配者の贅沢品として独占されていたが、新アッシリアの帝国段階になると商業ベースで各地に流通した。陶器の系譜の上で、土器ではなくレンガに釉薬をかけたのがタイルである。新バビロニア時代には、バベルの塔のモデルが建っていたバビロンの街を、鮮やかな青を基調とした彩釉レンガが飾った。
人類と鉄の出会いは、金属としてではなく色の原料としてだった。旧石器時代の赤色オーカーは洞窟壁画の絵の具になり、その延長で、約8000年前には鉄鉱石が彩文土器の赤い顔料に使われた。金属として意識され始めるのはウバイド文化の頃で、銅を製錬するときに鉄鉱石が混じると、それが融剤(フラックス)として働いて銅の融点を下げ、少ない燃料で短時間に製錬できた。そこで出来損ないの鉄のようなものが生まれたのだろう。あくまで冶金の副産物だった。紀元前3千年紀の終わり、度量衡を統一した中央集権国家ウル第三王朝の文書に、鉄を意味するらしいparzilluという語が現れる。2千年紀には交易都市マリや、ヌジ、ヒッタイトの首都ハットゥシャの文書にも頻出する。ヒッタイトが鉄を発明して独占したという教科書の定番の仮説は、最近の研究では揺らいでおり、まもなく教科書の記述は変わるのではないかという。トルコのアラジャ・ホユック遺跡の王墓から出た「鉄剣」は、当初、地球の鉄鉱石でつくられたとされたが、その後の分析により隕鉄でつくられた可能性が指摘されている。鋼がいつ出てきたかについて考古学が明確に示せる証拠は意外と少ない。新アッシリアの時代には、剣先を浸炭させて部分的に鋼にした、錬鉄と鋼のハイブリッドのような剣があったらしい。
14. まとめ──都市は技術開発の実験場だった95:30–101:10
最後に小泉さんは、年表を下から順にたどった。約9000年前に一般集落で粗製土器が作られ、約8000年前には窯とともに彩文土器が現れる。ウバイド文化の頃に都市的な性格をもつ集落(一般集落と都市の中間)が出てきて、銅の冶金が本格化する。銀の灰吹き法の発明と都市の誕生は、ほとんど表裏一体だった。都市が生まれた直後に絵文字的な記号が発明されて表音化が進み、国家段階になると遠隔地の錫と近場の銅で青銅の武器がつくられる。数百年の「戦国時代」に終止符を打ったのが、銀のリングの流通したアッカド王朝。その後、度量衡を統一し官僚制を確立したウル第三王朝、諸国を平定して法を整えたハンムラビのバビロン第一王朝が続く。メソポタミアの歴史は、不安定な国家と安定した国家が交互に織りなされるのが特徴だという。帝国段階では、鉄、コアガラス、陶器と新しいテクノロジーが相次ぎ、鉄の武器で武装したアッシリアが世界最古の帝国を築いた。
こうして並べると、重要な発明は都市が誕生してから、トントントンとスピード感をもって集中している。都市は技術開発の実験場であり、人間のコミュニケーションツールである文字を生んだ重要な舞台装置でもあった。極端に言えば、こうしたテクノロジーは、ある程度人口が密集した都市のようなところでなければ成しえなかった。それが考古学から見えてくる、と小泉さんは締めくくった。
15. 質疑応答──洪水と神殿、銀本位、専業化と管理、移民101:10–122:57
七沢はまず感想を述べた。海面上昇で食べるものがなくなり、よそ者が都市に流れ込む。隣に誰が住んでいるか分からず、村社会のような信頼関係がつくれないなかで共存せざるをえない。そこで生まれたドア封泥や文字は、家族や親族でなくても一緒に暮らし、大きな集団で共同行為ができるようにする技術だった。人間は共同するとますます強くなる。偶然回り始めたその車輪が、サピエンスの増殖にとって非常に都合のいい技術として花開いた。
チャットからの質問に、小泉さんが答えていった。滑車はあったのか:新アッシリア時代(約3000年前)のニムルド(古代名カルフ)遺跡には、城壁内の兵士が滑車で水を汲み上げているレリーフがある。ただしロクロや車輪の頃まで遡れるかは調べてみる必要がある。何が都市的な性格を帯びる端緒になったのか:簡単に答えられたら考古学者は廃業してしまう、と笑いつつ、快適な空間づくりに加えて洪水が大きかっただろうという。南メソポタミアは年間降水量200ミリほどだが、4月末から5月にタウルス山地の雪解け水が押し寄せる。川が1000キロ短いティグリスが先に暴れ、1週間から10日遅れてユーフラテスが暴れる。古代の記録でも必ず「ティグリス、ユーフラテス」の順で書かれるのは、洪水の起きる順番だからではないか。地平線の彼方の山で起きていることを知らない人々は、毎年決まった時期に川が暴れるのを神の怒りと考え、微高地に神殿を建てて鎮めようとした。そこに人が集まり、儀式が人々をつなぐ「つなぎの装置」として働いた。その副作用として都市や国家が生まれた、と捉えるのが「一番外さない」という。
銀は国家が管理していたのか、銀細工の技術者は国家に仕えていたのか:おそらく国家専属の工人がいた。鉛の鉱石から銀を灰吹きで取り出す技術は一部の人しか知らず、銀は国家が管理しやすい金属だった。同じオリエントでもエジプトは金本位だったが、メソポタミアは銀本位。金はありかが分かれば流通して値崩れするが、鉛の石ころは知識と工房がなければ価値がない。租税はあったのか:都市国家段階になると、大麦を中心とした物納の記録が見つかっている。七沢は、中国の『考工記』のように国家が技術の寸法まで定めて管理し、それによって技術が普及する構造は、権力者がAIを集約的に開発する現代まで変わらないと応じた。さらに、自然の恵みの少ない土地で自然を大きく改変し、自然環境によらずに生きる資源を得る考え方が都市と現代的な技術につながった。東洋思想や日本文化を大切にすると言いながら、私たちの身体は、自然の脅威から守られた人工空間を好んでしまう。そうした要素のほとんどが、すでにメソポタミアで生まれていた、と語った。
管理されることで専業化しやすかったのか:時系列では専業化が先、管理が後。土器づくりは最初、世帯単位のパートタイマーが農閑期に行っていた。ウルク文化になると、居住域から隔離された専業の工房が現れる。都市国家段階では、粘土を保管する部屋とロクロの円盤を置く部屋にそれぞれ鍵がかかり、土器づくりが分業化され、責任者が分かれていた例がある。どのくらいの集団規模で専業化は可能になるのか:意外に小さく、シリアで掘った直径100メートルにも満たない6000年前の村でも、端に隔離された専業工房が見つかった。「我々は大げさに捉えすぎてしまう」。七沢が西表島のジャングル生活を例に、得意・不得意や好みに体が正直に反応して、すぐに狩りをする人と道具を作る人に分かれるはずだと言うと、小泉さんは、メソポタミアでも専業化の前に役割分担が考古学的に確認されていると応じた。ウバイド文化では副葬品も家のサイズも均一で、役割の違いが地位の違いにはなっていなかった。ウルク文化の中頃までには、建物の大きさや金製品・ラピスラズリの副葬品に差が現れ、役割から地位へ、つまり階層化が進む。
最後に七沢が、出アフリカ直後の地であるメソポタミアにはどれほど多様な民族がいたのかを尋ねると、小泉さんは「相当入り乱れていたと思う」。どこからでもアクセスできる平原だからこそ、洪水対策と同時に、押し寄せる人の波への対策として城壁が必要だった。七沢は、ヨーロッパやアメリカが向き合う移民問題も、5000年前から変わらない、ある意味で宿命的なものだと受け止め、メソポタミアをヒントに考え続けたいと結んだ。小泉さんの著書『都市の起源──古代の先進地域=西アジアを掘る』(講談社選書メチエ)には、ドア封泥や土器工房の話もしっかり書かれている。今日の話を深く理解するための一冊として紹介され、2時間が締めくくられた。
SUMMARY今夜の要点
- 最初のテラコッタは土偶だったヨーロッパと西アジアで最初に焼かれたのは、女性だけの土偶で、土器よりも古い。西アジアの土器は約9000年前と日本より遅く、煮沸、乳製品の加工、銅の製錬の坩堝など、用途はまだ議論が続いている。
- 都市化とは、快適な空間づくりから始まった無人のシュメール平原に移り住んだウバイドの人々は、排水や井戸などの水回りを整え、神殿で人間関係を円滑にした。祀る・住む・作る場所が溶け合ったランダムな配置から、街路で区画された計画的な配置へ。
- 気候変動が「よそ者」を生み、壁と鍵を生んだ約6000年前の海面上昇で塩害が広がり、畑を失った農耕民が「よそ者」として豊かな集落へ移り住んだ。ならず者対策として城壁ができ、協調性のあるよそ者とのトラブルから、倉庫にドア封泥という「鍵」がかかった。印章を持つ人が指導者になった。
- ロクロ盤を縦に起こすと車輪になる食器を大量生産するために生まれたロクロ盤が車輪に転用され、ロバの家畜化と合わさって、水系をまたぐ陸上の交易ルートが開けた。富がシュメール地方に集まり、まもなく都市が誕生する。
- 都市の誕生と銀の灰吹きは表裏一体最古の都市ウルクの支配者は、銀を手に入れるために1000キロ離れた北シリアにもう一つの都市をつくった。銀は知識と工房がなければ得られないので、国家が管理しやすい。メソポタミアは銀本位の世界だった。
- 文字は都市の帳簿から生まれ、よそ者の名前を書くために音を得た都市ができてから、メモ書きとして絵文字的な記号が生まれた。都市国家が並び立つと、正確な記録とアッカド人の固有名詞を書き表す必要から表音化が進み、600年かけて楔形文字が完成した。
- 聖から俗へ、そして青銅の武器へアッカド王朝時代、「銀のリング」が貨幣として流通し、それは神殿ではなく宮殿に保管された。世俗的な王は銀で遠隔地の錫を手に入れ、青銅の武器をつくった。武器の開発は新しい技術の開発と表裏一体だった。
- 都市は技術開発の実験場だった重要な発明は都市の誕生後に集中している。テクノロジーは、人口が密集した都市のようなところでなければ成しえなかった。家族や親族でなくても共に暮らせる技術は、5000年前からの「移民問題」とも地続きである。
APPENDIXチャット欄から(匿名要約)
- 都市化の歴史がとても気になる。都市化とは、そもそもどういうことなのか。
- 実験考古学という言葉を初めて聞いた。
- 土器のほうが土偶より新しいとは驚き。「土偶が土器より先だったことは衝撃でした」。
- ドア封泥は、現在の鍵の考え方とは異なっていて興味深い。
- ロクロの円盤の応用で車輪、面白すぎる。滑車などはさすがにまだなかったのか?──口頭で応答(新アッシリア時代には滑車の図像資料がある)。
- 何をもって都市とするかという基準とも関わるが、何が都市的な性格を帯びる端緒になったのかが気になった──口頭で応答(快適な空間づくりと、洪水と神殿)。
- 銀の輪っかが貨幣になったという話があったが、銀自体は国家が管理していたのか。輪っかを作る技術者は国家に仕えていたと言えるのか──口頭で応答(銀は国家が管理しやすい金属、銀本位と金本位)。
- 国家が生じた段階で、租税のような仕組みも生まれていたのか──口頭で応答(大麦を中心とした物納の記録)。
- 管理されることで専業化しやすかった、という背景もあるのか──口頭で応答(専業化が先、管理が後)。
- 講師の著書『都市の起源──古代の先進地域=西アジアを掘る』(講談社選書メチエ)の紹介。