HISTORY OF TECHNOLOGY

技術史 第6回
汚穢と技術──隔離し、隠蔽し、混じり合うための装置と技法

まとめレポート(講義動画 2時間08分49秒より作成)

講座
makers Unlearn 2026(mU)
講師
酒井朋子(京都大学人文科学研究所・文化人類学) 進行:七沢智樹 対話:島田将喜・相馬皓介
開催日
2026年10月8日(木)

OVERVIEW概要

技術史の第6回は、文化人類学者の酒井朋子さんによる「汚穢(おわい)」の回。技術の話を正面から語るのではなく、技術の周りを巡りながら、私たちの暮らしそのものを見直す2時間になった。出発点は「皆さんは今日、どのように汚穢と関わりましたか?」という問い。トイレ、洗濯、皿洗い、抜け落ちた髪の毛——酒井さんが自分の生活記録をつけてみると、書いても書いてもキリがなかった。生活とは、乱れに体で触れて、つかの間の秩序を取り戻す作業の繰り返しであり、「汚穢は異常ではない。清浄であることこそが異常である」。

前半は「汚」と「穢」の話から。散らかった部屋やカビのような日常の汚と、死者や神域や月経にまつわる象徴的な穢は、本当にはっきり分かれているのか。かつて両者がはっきり区別されていなかった時代、それは災いと恵みを両方もたらす、人知を超えた領域だったのではないか。それが近現代テクノロジーによって、笑われ見下される「汚」へと矮小化されてきた。続いて、喪中や病人の隔離、共食の忌避といった民俗社会の汚穢への対処が、新型コロナ初期の対応とよく似ていること。そして「汚れた靴と汚れた皿、うわっと思うのはどっち?」という問いから、人類学者メアリ・ダグラスの「けがれとは場違いなもの」へ。口の中にある間は何でもない唾液が、外に出た瞬間に「汚いもの」になる。

後半は手洗い。入浴の習慣は近代国家と上下水道がつくった産物だが、人はずっと手を洗ってきた。それは病の予防のためではなく、手が体の一部であり、感覚器官であり、道具でもあるからだ。19世紀に細菌が発見されると、汚れは体で感じられないものになり、洗う行為が儀式になる。結びはダグラス『汚穢と禁忌』最終章のセンザンコウ——秩序は現状を保つ努力でしかなく、新しいものを切り開くには穢れたものの力を借りるしかない。「災いと恵みをともに受け止める」ことこそ、今日学ぶべき汚穢の技法である。対話では、チンパンジーの毛づくろいネットワーク、七沢の「手だけは洗う」、幽霊と細菌の近さ、犬の匂いまで、話題は尽きなかった。

タイムスタンプは講義アーカイブ動画の再生位置です。スクリーンショットは講義スライド等の引用(©酒井朋子)。スライド内の写真には各出典の表記があります。チャット・音声での受講生の発言は匿名化しています。

CONTENTS講義の内容

1. オープニング──同じ農学部、隣の研究室0:00–4:41

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1:58酒井朋子さんと七沢。京都大学農学部の、隣の研究室の1学年違いだった。

前回の県立大からの配信を終え、今回はふたたびZoomから。酒井さんは京都大学人文科学研究所の文化人類学者で、実は七沢と京都大学農学部の同時期・隣の研究室(1学年先輩)の間柄。アイルランドの都市研究で農学から離れていたが、最近「舞い戻ってきた」という。人と動物の関わりの研究は今でこそブームだが、あの農学部には昔からそういう面白い先輩たちがいた、と懐かしむ場面も。

2. 皆さんは今日、どのように汚穢と関わりましたか?4:41–8:16

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4:46冒頭の問い。チャットにはそれぞれの「今日の汚穢」が書き込まれた。

講義はいきなり問いから始まった。チャットには「忙しさを言い訳に、にんじんを腐らせました」「水洗トイレで用を足しました」「虫が入った栗を捨てました。これも汚穢?」「季節の変わり目で髪の毛がよく抜ける。生えていたものなのに、落ちていると嬉しくない」——。酒井さんいわく「汚穢論のあるある」で、ついている間は大事な髪が、抜けた瞬間におぞましくなる(前の住人の髪の毛が残る賃貸の浴室を思い浮かべてほしい)。七沢は「冷蔵庫の鮭が腐っていた。トイレにも行ったけど、水に流れてしまったので関わった感じがしない」。酒井さんは「水洗トイレはすごいシステム。水を張るだけで、においが完全に封印される」と応じた。

3. 生活は「きたなさ」への対処でできている8:16–16:36

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11:46生活は「きたなさ」への対処でできている。汚穢は異常ではない、清浄であることこそが異常である。

酒井さん自身の今朝の行動——着替える(洗濯物が出る)、トイレに行く、顔を洗う、麦茶を飲む(コップが使用済みになる)、洗濯、ご飯の準備(皮やパッケージのゴミが出る)、皿洗い、歯磨き、洗濯物を干す、化粧。あらためて見返すと、ほとんど全部が汚穢に関わっていた。ご飯をつくるという創造的な行為でさえ、可食部と非可食部を分ける分類の作業であり、不要物を必ず生み出す。

4〜5年前に汚穢の研究を始めたとき、酒井さんは自分の生活記録(「汚いファイル」)をつけ始めたが、あまりに多すぎて書き切れなかった。そこで分かったのは、家事や身繕いのほとんどが「乱れに体で触れて、つかの間の秩序を取り戻す」作業だということ。片付けた瞬間からまた汚れ、使えばまた乱れる。生きることは、そのまま汚穢を生み出し続けることなのだ。研究を始めた頃は「汚い」と排除する力の暴力性には批判的でも、どこかで「汚れていない状態が正常」と信じ込んでいた。だが、きれいな状態はほんの一瞬しか訪れず、完全にきれいな状態には到達できない。だから異常なのはむしろ清浄さの方だ、と考えるようになったという。

4. 「汚」と「穢」──物質的なものと象徴的なもの16:36–23:46

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16:46「汚」——部屋の散らかり、風呂キャンセル界隈、トイレ、カビ、服のしみ。日常的・物質的・身体的で、笑われ見下されるもの。
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18:46「穢」——死者を送る儀礼、供養、聖域としての神社、月経。畏れ多いもの、超自然的なもの。現代では消えつつある信仰のように見える。

なぜ「汚さ」ではなく「汚穢」という言葉を使うのか。「汚」が指すのは、散らかった部屋や風呂キャンセル界隈、カビ、服のしみのような日常的・物質的なもので、どこか笑われ、見下されるもの。一方の「穢」は、死者を送る儀礼や何度も重ねる供養、鳥居の向こうに持ち込んではならない神域、月経のような、畏れ多く、超自然的で、非日常的なもの。15年ほど前、漁師の祖父をもつ20歳の学生が「生理の間は神棚に近寄らない」と話していて、若い世代にもその感覚が残っていることに新鮮な驚きを覚えたという。

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20:46物質的なものと象徴的なものは、そんなにはっきり分かれているのか。汚穢はわざわいと恵みをもたらす(人智を超えている)——それが近現代テクノロジーにより「汚」に矮小化された。

だが私たちの生活の中で、両者はそんなにはっきり分かれていない。触ると何となく嫌な感じがする、そのままにしておいてはいけない気がする——その感覚が物質的なものか、象徴的な心の問題なのか、区別できないことはよくある。酒井さんが関心を寄せるのは、まさにそのどちらとも言えないものだ。かつて両者がはっきり区別されていなかった時代、それは災いと恵みを両方もたらす、予測もコントロールもできない人知を超えた領域だったのではないか。それが近現代テクノロジー——薬剤や水洗トイレのようなシステム——によって「コントロールできた」と信じられるようになり、笑われ見下される「汚」へと矮小化されていった。

5. 自己紹介──脅威とともにある日常23:46–30:16

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25:46研究テーマは「脅威とともにある日常」。紛争や戦争、環境汚染のなかの生活と、よごれとけがれの文化史・人類学。

酒井さんの研究テーマは「脅威とともにある日常」。紛争のような非日常も、長く続けば人はそこで日常生活を送るようになる。その危機と一緒にある日常を、約30年にわたる紛争を経験した北アイルランドをフィールドに研究してきた。もう一つのフィールドは、東京電力福島第一原発事故の被災地の山村。標高1000メートルほどのなだらかな山に集落が点在し、スーパーまで車で40分かかるが、ほとんど自給自足で暮らせてしまう人々が、野生キノコの採集をはじめとする山との関わりを事故後どう変えているのかを調べている。身近なものを少しだけ方向を変えて暮らしに引き寄せ、使い尽くさない山村の暮らしに、相馬さんの話との近さを感じたという——とりわけ、名前ではなく「柔らかい」「しなる」「におう」といった形容詞で植物を見極めるという第3回の話には「まさに」と共感した。

6. 人類学とは──専門家ではない人々の暮らしから30:16–34:56

人類学とは「人間とは何か」を探求する学問——ただし文学も哲学も歴史学も医学も、究極的には同じ問いに向き合っている。だから人類学の特徴は問いではなく方法にある。経済人類学なら、優れた経済学者の著作ではなく、ふつうの人がどうへそくりを貯めて使うかを見る。宗教人類学なら、偉大な指導者の聖典ではなく、ときにだらしなさも抱えた人々の信仰との付き合い方を見る。専門家ではない一般の人々の暮らしと経験に、話を聞き一緒に暮らす長い現地調査で迫り、誰もが何気なく行っていることに新しい光を当てる。汚穢についての酒井さんの研究も、平安時代の支配階級の厳格な穢れのルールを分析するのではなく(そうした研究を読みはするが)、今を生きる人々が汚穢にどう反応し、かかわっているのかを明らかにしようとしている。

7. 「汚穢の倫理」研究会──人間の生活時間のほとんどは汚穢とかかわる34:56–40:36

2021年、酒井さんは倫理学や環境社会学の仲間と「汚穢の倫理」研究会を始めた(サントリー文化財団の研究助成)。それまでの汚穢研究は、供養や神社の聖域、死の黒不浄・月経の赤不浄・出産の白不浄といった儀礼や信仰の研究が中心で、名著として波平恵美子『ケガレ』がある。そうではない観点——生活から考える道はないのか。

人間の生活時間のほとんどが汚穢とかかわるのはなぜか。①生命維持(うんち、おしっこ、垢、抜け毛)。②生活維持のルーティン——生活は同じことの繰り返しで、住まいも道具も体も心も「元の使える状態に戻す」ことが目的になる。③生産や創造——ものを作れば必ず不要物が出る(絵を描くときの失敗作のように)。逆に、汚穢と関わらない時間——会社の仕事や学校の勉強——を1日7〜9時間続ける生活は、近現代になって生まれたものだ。かつて大多数の人々は、衣食住のほとんどを環境の中の動植物や自然現象を使って自分で生み出し、不要物にまみれて暮らしていた。

8. 民俗社会の汚穢への対処と、新型コロナ40:36–45:56

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40:46日本の民俗社会の汚穢への対処——排泄物や腐敗したものの隔離、血液を避ける、死者や病気との接触(喪中)。新型コロナの混乱期の対処との類似性。

民俗社会は汚穢にどう対処してきたか。便所を母屋の外に置いて隔離する。血液に触れることを避ける。そして死者や病気との接触を避ける喪中——近親者が亡くなった日から数えて7日は家にこもる。これは、新型コロナの最初の混乱期を経験した人なら「必死に思い出した」はずの対処によく似ている。濃厚接触者は数日間外に出ない、インフルエンザなら数日は登校しない。近代医学以前は、死因が伝染病なのか心臓発作なのかも分からない。だから安全圏を広く取り、災いと接触したかもしれない人を家にとどめる——それを「知恵」と呼ぶのはポジティブすぎる(きわめて差別的な面もある)が、何らかの技法だったのだろう。とりわけ、死者の家族や出産直後・月経中の人とご飯を一緒に食べないというタブーは、コロナ禍の「大人数で一緒に食べるのはやめて、家族とだけ食べましょう」と明確につながっている。

9. 嫌悪(ディスガスト)の研究──「生きている」しるしを嫌う45:56–48:46

日本では汚穢の研究は主に民俗学で「ケガレ」研究として行われてきたが、海外では美学・心理学・精神分析の中で嫌悪(disgust)の研究がある。そこで言われるのは、目や耳よりも鼻・舌・肌触りが重要だということ。サラサラよりネバネバ、焼けるように熱いものより生暖かいもの、乾いたものより濡れたもの、硬いものより柔らかいものが不気味に感じられる。酒井さんは「これは生きているしるしを嫌がっているのではないか」と言う。私たち自身の体液はネバネバし、体温があり、濡れていて柔らかい——一種の同族嫌悪かもしれない。進化心理学ではヘビへの嫌悪を、類人猿時代の天敵への忌避として説明したりもする。

10. 靴と皿──けがれとは「場違いなもの」48:46–57:36

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49:36「うわっ、いやだ」という気持ちをおぼえるのはどちら?——汚れた靴と、食べ散らかした皿。

汚れた靴と食べ散らかした皿、「うわっ、いやだ」と思うのはどちらか。チャットでは皿派が多数(「皿はこの重ね方自体にウワ〜と感じる。裏がやばそう」)。七沢は「どちらも全く嫌だと思わない」と汚穢感覚の特異さを告白。島田さんは「置かれている場面による。泥んこの靴はフィールドワークでよく使うので、玄関先ならいいけど家の中なら嫌。皿も流しにあればいいけど、戸棚の中にあったら嫌」——酒井さんは「まさにダグラスが言わんとしたこと」と受けた。

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55:46けがれとは「場違いなもの」。メアリ・ダグラスによれば、通常あるところでないところにあるもの、秩序を乱すもの、曖昧なもの、分類や境界をはみ出たもの。

友人宅の玄関に泥だらけの靴があっても「山でフィールドワークしたのかな」で済む。だが靴箱を開けたら汚れた皿が入っていたら——何かやばいことが起きている、この人には深刻なケアが必要かもしれない、とさえ思う。逆にダイニングテーブルの上なら、汚れた皿は普通で、靴の方が異様だ。大教室でこの質問をすると、単独で聞いたときはバラバラだった答えが、場所を指定した途端にギュッと収束する。社会的に共有された価値観は、文脈の中で初めて現れる。人類学者メアリ・ダグラスは、けがれとは「場違いなもの」だと言った。いつでもどこでも汚い何かがあるのではなく、通常あるところでないところにあるもの、秩序を乱すもの、曖昧なもの、分類や境界をはみ出たもの。就職面接に浴衣や水着で現れるように。

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56:46口の中の唾液は、消化に不可欠な分泌物で存在を意識しない=きたなくない。口の外に出ると、有害かもしれないものに「なる」。

分かりやすいのは唾液だ。口の中にある間は、話している相手を「唾液を持った汚らわしい人だ」とは思わない。だが話していて唾が飛んだ瞬間、それは人に何かをうつすかもしれない、拭かなければならない「有害かもしれないもの」に変わる。何が汚いかは、置かれた場所によって変わるのである。ただしダグラスの議論は、その後ほとんどが豚の禁忌やナマズのような宗教的タブーの象徴分析へ向かい、生活から離れていく。だから酒井さんは、もう一度生活に降りるために手洗いを取り上げる。

11. 挿話──人の手が触れたものを、食べられるか57:36–69:41

ここでチャットが盛り上がった。ある受講生は「チェーンの牛丼屋は規格化されていて整った印象があるから、厨房で人が作っているのを見ると若干気持ち悪い。無菌室に肌や髪の毛がある感じ。鉄板料理や家庭料理の店ならむしろ良さになるのに」。別の受講生は医学部入試の問題を紹介した——ボランティアのおばあさんたちが合宿中の生徒のために素手でおにぎりを握ったが、多くが「他人の握ったものは不衛生」と残した。あなたが医師ならどう対応するか。酒井さんは、BBCのポッドキャストで聞いたあるエピソードを紹介する。コロンビアから米国に養子に出され、30代になって生みの母のもとを訪れた女性が、母が目の前でアレパ(とうもろこしパン)を素手でこねて作ってくれたとき、言葉がまったく通じないにもかかわらず、強い親子のつながりを感じたのだという。今は飲食店ではビニール手袋が必須だが、汚いかもしれないものを通じてしか結べない親密な関係がある。それは冒頭の「汚穢は災いと恵みの両方をもたらす」とつながる。七沢は「自分なら食べて『おいしい、ありがとう』と言う」。

ダグラスの原著のタイトルはPurity and Danger(清浄と危険)。汚穢は曖昧で、恵みにも災いにもなりうる「危険」なものだ。それを最初から取り除こうとするのが現代のリスク管理である。汚穢研究の大枠の結論は「現代社会は清潔の神話に侵されすぎている。リスクも含めて寛容になろう」だが、社会はもっと複雑だ。トイレの後に毎回ズボンを替えないと気が済まない子どもは、学校生活を送れない。社会規範には「清潔にしなさい」という表のコードと、「こだわりすぎると受け入れられない」という裏のコードがあり、ある種類とある程度の汚れは気にしないという人がもっとも社会的に受け入れられやすいというダブルスタンダードがある。極度に潔癖な人も、また社会から疎外される。七沢からは、県立大の必修授業で19歳の学生をフィールド講義に連れていくと、最初は嫌がっていても入ってしまえば若い人ほど臨機応変になるという実感も語られた。

12. 手洗いは近代の産物?──入浴の歴史と、ずっと洗われてきた手69:41–81:26

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71:46手洗いは近代の産物?——そうとも言えるし、そうではないとも。入浴の歴史は古代ローマ→キリスト教期の衰退→ペスト後の「入浴は危険」→19世紀の入浴推奨文化。

新型コロナ以降、石鹸で手を洗わないと落ち着かなくなった人は多い。それまで日本の公共トイレには水しかないところが多かったが、医学的には水だけの手洗いは細菌の除去にほとんど効果がなく、むしろ湿度を与えて増やしてしまうこともある。パンデミックを経て、手洗いは病の予防に収斂した。だが手洗いは本当に、病の予防のためだけのものだったのか。

手洗いの研究は少ないが、入浴の研究はたくさんある。古代ローマの入浴文化(『テルマエ・ロマエ』の世界)は、「肉体に手をかけすぎるのは不道徳」とするキリスト教の広まりで一気に衰退する。十字軍が中東の入浴文化を持ち帰っていくらか盛り返すが、ペストの流行後は「体の穴から病の原因が入る(ミアズマ説、多孔的な身体)。水に体を浸すのは危険」とされ、ふたたび廃れる。それが19世紀、細菌説によって「水で洗い、消毒しろ」に変わる。産業革命で人口が都市に集中し、中央集権的な国民国家が上下水道を整備し、燃料が集まって、初めて頻繁な入浴が多くの人に可能になった。入浴を清潔さの第一とする観念は、政治・経済・医学・技術の組み合わせが発明した近代の道徳だったのである(入浴しなかった近世までは、互いにシラミを取り合うことが「仲良しの時間」だった)。

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77:46人はずっと手を洗ってきた。中世ヨーロッパの修道院の手洗い場所、日本の共用井戸と手水鉢。写真は食事の前に手を洗うための水差し(アクアマナイル)。

では手洗いも近代の産物か——そこが面白いところで、資料を見ると人はずっと手を洗ってきた。中世の修道院には手洗い場所や「禊の部屋」があり、食事の前には修道僧が列をなして洗いに行った。14世紀ごろには食事前に手を洗うための水差し(アクアマナイル)が数多く作られた。日本では共用の井戸や水源から汲んできた限られた水を、便所の近くの手水鉢(手洗い鉢)にためて手を濡らし、手拭いで拭った。ところが、これは医学的にはむしろ有害だった。ためた常温の水は細菌や寄生虫の温床になり、前の人が洗った水で次の人が手を洗えば病気をうつしてしまう。大正から昭和初期には「手水鉢をやめなさい」という論文がたくさん書かれたほどだ。人々は手を洗わずにはいられなかった。でもそれは、病の予防のためではなかったのではないか。

13. 体の一部であり、道具でもある手81:26–86:26

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81:46体の一部であり道具でもある手。前の作業の影響が残らぬよう、質の高いもの作りのために、相手へのいたわりと礼節のために洗う。

酒井さんの答えは、手の特殊な役割にある。手は体の一部であると同時に、ものを作り作業をするための道具でもある。土だらけの手で料理をすれば料理がまずくなる。洗剤がついた手でご飯を触ればまずくなるし、石鹸だらけの手で顔を触れば肌が荒れる——生活記録で思いがけず何度も手を洗っていたのは、病の予防ではなく次の作業のためだった。手はまた感覚器官でもあり、土や油がつけば温度も手触りも分からなくなる。さらに肩を叩き、撫で、抱きしめ、握手するコミュニケーションの道具でもあり、相手を汚さないための配慮として洗う。手洗いの意味が多義的なのは、手そのものが多義的だからだ。

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84:46聖なるよごれと力の伝染。マルク・ブロック『王の奇跡』——王の手は瘰癧(るいれき)を治す力をもち、病人に触れた王の手を洗ったたらいの水を飲むと病が治るとされた。

手は聖なる力も伝える。歴史家マルク・ブロックの『王の奇跡』によれば、王権神授説の中世〜近世の英仏では、王は神から与えられた力で瘰癧(リンパ節結核)を治せるとされ、病人に触れた王の手を洗ったたらいの水を飲むと病が治る、幸せになると庶民は信じた。災いが手を通じて伝染するように、聖なる力もまた手を通じて伝染する。

14. 近代に病と手洗いが結びつく──洗うという儀式86:26–95:26

19世紀後半まで、ヨーロッパでは瘴気(ミアズマ)説が生きていた。臭く淀んだ湿った空気が病の元であり、だから換気が重要で、「病は臭い貧民街からやってくる」と信じられた——病のあり方が階級や住む場所と結びついていた。それが19世紀半ば、細菌説へ転換する。ゼンメルワイスは、死産の赤ちゃんを取り上げた手のまま次のお産に当たるかどうかで産褥熱の発生が違うことに気づき、手洗いを訴えた(「手指消毒法の父」)。顕微鏡が普及し、炭疽菌やコレラ菌が次々に発見される。

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90:46細菌の発見。それまで一体だった美しさ(装飾)と清潔さが分化し、目に見えない細菌のために「洗っても洗ってもキリがない」——「洗う」行為が儀式になる。

細菌の発見は「きれい/汚い」の感覚を大きく変えた。第一に、それまで一体だった美しさ(装飾)と清潔さが分化した。「日本人はクリーンとビューティフルを分けない」と日本特殊論的に語られることがあるが、むしろ両者をはっきり分ける方が近現代の特殊な価値観だ。第二に、それまでの汚れは臭い、しみ、ぬるぬるといった体で感知できるものだったが、細菌は顕微鏡なしには見えない。見た目がきれいでも不潔かもしれない——洗っても洗ってもキリがない。その結果、水や灰や油で身の回りのものに対処していたケアは、工場で作られた消毒液や洗剤に頼らざるをえなくなった。

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93:46洗うという儀式。儀式とは、あいまいな状態にあるものに、決められた形式ではたらきかけ、状態が「確定した」ことにする行為。手についた細菌という「物神事実」(ラトゥール)。

こうして洗う行為が儀式になる。人類学的に言えば儀礼とは、きれいなのか汚いのか分からない曖昧な状態のものに、聖水であれ一定濃度のアルコール消毒液であれ、決められた形式で働きかけ、「きれいになった」ことに確定させる行為だ。近代ヨーロッパ人は、未開の地の人々が神像に特別な力を信じるのを「フェティッシュ(物神崇拝)」と嘲笑したが、ブルーノ・ラトゥールは、細菌や清潔/不潔をめぐる私たちのふるまいもやっていることは同じだと言う。

15. 災いと恵みをもたらす無秩序──汚穢の技法95:26–99:41

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95:46災いと恵みをもたらす無秩序。ダグラス『汚穢と禁忌』最終章、アフリカのレレ族のセンザンコウ——爬虫類のような姿で子に乳を与える曖昧な存在を、忌避しつつも聖なる動物と見なす。

結びはダグラス『汚穢と禁忌』の最終章。アフリカのレレ族にとって、鱗があるのに哺乳類で子に乳を与えるセンザンコウは、分類をはみ出す曖昧でおぞましい存在のはずで、日常的には忌避されている。だが宗教儀礼では必ず用いられる。秩序とは同じものを保とうとする努力、現状維持でしかない。同じものを保ち続ければ社会は衰退していく。だから一歩踏み出して新しいものを切り開くときには、穢れたものの力を借りるしかない。通常は忌避されているものをあえて迎え入れ、それと交わることで突破口を見出す——「我々は聖なる時、聖なる場の奥深く、不浄なるものが秘められているのを見る」。酒井さんは「災いと恵みをともに受け止める」考え方こそ、今日学ぶべき汚穢の技法だとまとめた。ただし現実のリスク管理の場面では「言うのは簡単」になってしまうので、具体的な場面でどうするかを皆と考えたい、とも。

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98:46汚穢と環境のなかの死体。川の中洲をあえて死体の埋葬地とする習慣(関沢まゆみ「危険と豊饒」)。民俗社会では、ケガレは年忌を重ねて少しずつ薄くなる。

最後に、最近考えているという死体の話。死体は穢れたものなので、村外れに埋める場所とお参りする場所を分ける両墓制の地域もある。その中で、よく氾濫する川の中洲にあえて死体を埋葬する習慣がある。水害はあたりに被害をもたらす災いだが、同時に死体も流し、溜まった穢れをリフレッシュしてくれる。災害の力を逆利用する関係を、民俗社会は災害と結んできたのではないか(関沢まゆみの論文)。

16. 対話──毛づくろい、手だけは洗う、幽霊と細菌99:41–128:49

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106:16対話パート。進行の七沢、講師の酒井さん、島田さん。

野生チンパンジー研究者の島田さんは「すごく人らしい話だった」。チンパンジーの社会にも騒乱の時期と落ち着いた時期があるが、象徴的な装置を使って何とかしようとするのは観察したことがない。一方でサルは互いに毛づくろいしないとあっという間にシラミだらけになる。健康のためには他者との接触が不可欠だが、接触は病気のリスクも負う——自分を健康に保つためのネットワークが、あべこべに健康を脅かすものにもなる。毛づくろいが集中する強い個体ほど病原体を受け取るリスクが高く、一度感染すると集団に一気に広がる(実証は難しく、シミュレーションで示すしかない)。酒井さんは、中世の小さな村の記録で人気のある破戒僧の愛人たちがこぞって彼のシラミを取りたがり、その間に噂話を交わしていた話を紹介。シラミ取りは親密さのコミュニケーションであり、情報網でもあった。

七沢は自身の「限界まで試す」実践を語った。学生時代に「全部意味がないのでは」と思い、いまも体を洗うのにボディソープは使わない。でも手だけは洗う——「ここにすごいセンサーがあるので、きれいになっていないと居心地が悪い。食べ物も食べるし、操作もする」。酒井さんは「七沢さんでも手は洗うんだと聞いて安心しました」。ただし臭ければ家族が嫌がるから着替える——過剰なものはギリギリまで削りつつ、関係性の中でバランスさせる。話はおまじないの効用へ。酒井さんは、多くの人はおまじないを全く信じていないのではなく、何かあったときに「3%くらい、そういえばやったな」と思う多元的な現実を曖昧に生きているのではないか、と。七沢は、おまじないには責任を神意や偶然に半分預けられる効果がある、と自分の「全部責任を取りたい」性分を重ねて笑いを誘った。

受講生からは、幽霊が苦手だという話。いるかもしれないし、いないかもしれない、どちらとも反証できず、背中がゾワッとする感覚が、目に見えない病原菌の感覚に近い。子どもの頃の「〇〇菌」と言ってタッチするいじめのゾワッと感も同じだ。幽霊への想像力は、病原体を持っていそうな個体から逃げるための能力だったのでは? 酒井さんは、汚穢とは病だけでなく罪人や天変地異も含む災い全般であり、塩を置くなど穢れ対策と幽霊対策はかなり重なる、むしろ穢れが擬人化されて幽霊になったのかもしれない、と応じた。四十九日から一周忌、三回忌、七回忌…と法要を重ね、およそ50年で弔い上げとなる頃には、故人を個人として覚えている人もいなくなり、遺体も分解されて個体識別できない骨になる。死者が個人として曖昧に漂っている時期には、幽霊としているという感覚にも理がある。七沢は、昔の人は感受性が強かったから幽霊が見えたのでは、と言いつつ、分からないものへの尊重の念の大切さに話を向けた。最後は「風呂キャンセルした人間は気持ち悪がられるのに、なぜ洗っていない犬はお日様の匂いがすると言われるのか」で大いに盛り上がり(布団のお日様の匂いはダニの匂い説、犬は汗をかかないから説)、酒井さんのおすすめ本『家は生態系──あなたは20万種の生き物と暮らしている』の紹介で幕を閉じた。

SUMMARY今夜の要点

  1. 生きることは、汚穢を生み出し続けること生活のほとんどは、乱れに体で触れてつかの間の秩序を取り戻す作業の繰り返し。きれいな状態はほんの一瞬しか訪れない。汚穢は異常ではなく、清浄であることこそが異常である。
  2. 「汚」と「穢」は分かれていない日常的・物質的で見下される「汚」と、象徴的で畏れ多い「穢」。かつて両者がはっきり区別されていなかった時代、それは災いと恵みを両方もたらす人知を超えた領域だったのではないか。それが近現代テクノロジーによって「汚」に矮小化された。
  3. 民俗社会の対処は、コロナ禍の対処に似ている隔離、血液を避ける、喪中、共に食べることの忌避。原因の分からない災いに対して安全圏を広く取る、近代医学以前の技法だった。
  4. 嫌悪の矛先は「生きているしるし」ネバネバ、生暖かい、濡れている、柔らかい。嫌悪の研究で重要なのは目や耳より鼻・舌・肌触りで、それは私たち自身の体の性質でもある。
  5. けがれとは「場違いなもの」靴箱の中の皿、テーブルの上の靴。口の外に出た唾液。何が汚いかは置かれた場所で決まる(メアリ・ダグラス)。共有された価値観は、文脈の中で初めて現れる。
  6. 人はずっと手を洗ってきた——道具であり感覚器官だから入浴の習慣は近代国家と上下水道の産物だが、手洗いはずっとあった。それは病の予防のためではなく、手が体の一部・感覚器官・道具・コミュニケーションの手段であり、次の作業のために洗うからだ。
  7. 細菌の発見で、洗うことは儀式になった美しさと清潔さが分かれ、汚れは体で感じられないものになった。洗っても洗ってもキリがなく、消毒液と洗剤に頼り、決められた形式で「きれいになった」と確定させる——私たちの清潔も一種の物神崇拝である。
  8. 災いと恵みをともに受け止める秩序は現状維持でしかない。新しいものを切り開くには、穢れたものの力を借りるしかない(センザンコウ、川の中洲の埋葬)。リスクを最初から取り除くのではなく、ともに受け止めることが、今日学ぶべき汚穢の技法である。

APPENDIXチャット欄から(匿名要約)

  1. 今日の汚穢——「忙しさを言い訳に、にんじんを腐らせました」「水洗トイレで用を足しました」「栗拾いで、虫が入った栗を捨てた。これも汚穢?」(相馬さん)「季節の変わり目で髪の毛がよく抜ける。生えていたものなのに、落ちていると嬉しくない」。
  2. 靴と皿、どちらが嫌か——皿派が多数。「靴は普通に使っていればこうなる気がするが、皿は重ね方自体にウワ〜と感じる。裏がやばそう」。島田さん「置かれている場面によりますね」。
  3. チェーンの飲食店は規格化されて整っている印象があるから、厨房で人が作っているのを見ると若干気持ち悪い。無菌室に肌や髪の毛がある感じ。鉄板料理や家庭料理の店ならむしろ良さになるのに。
  4. 医学部入試の問題として出たという話——ボランティアのおばあさんが素手で握ったおにぎりを、多くの生徒が「不衛生」と残した。医師ならどう対応するか。「読んだとき、黙ってしまいました。難しい」。
  5. 科学と衛生が徹底された後の時代に生まれたので、けがれと不衛生のあいだでどう過ごしたらいいか分からなくなる。細胞培養をしていたのでキッチンなんて全部汚いと思いつつ、3秒ルールもある。
  6. 衛生ではなく、お気に入りのPCや机や本を油まみれにしたくないという見た目の嫌悪もある。手を洗うと罪の意識が洗い流される「マクベス効果」の研究もある(追試で揺らいでいるが)。
  7. 憧れの人と握手したら手を洗いたくない——聖なる「よごれ」という言葉は不思議。
  8. 顔は石鹸だと皮脂を落としすぎて、お湯だけの方がいいという研究があった気がする。
  9. 人は体毛の一部が伸び続けることと、汚穢の意識は関係するのか?——口頭で応答。
  10. 人間は風呂キャンセルすると気持ち悪がられるのに、洗っていない犬はお日様の匂いがすると言われるのはなぜ?——「汗をかかないのがポイントかも」「猫吸いはあるけど、犬の匂いが好きな人もいるんですね」と盛り上がった。
本レポートはAIによる自動文字起こしと講義スライドをもとに作成しています。固有名詞・数値等は講義中の発言とスライドに基づくため、正確な出典は各文献をご確認ください。受講生の氏名は匿名化しています。