OVERVIEW概要
技術史の第3回は、YouTubeチャンネル「週末縄文人」を運営する相馬皓介さんによる、実践から語る縄文の知性の回。「現代の道具を一切使わず、自然のものだけでゼロから文明を築く」というルールで5年間活動を続け、竪穴住居も土器も布も弓矢も火も、自らの手で作り直してきた。その体験を通して初めて見えた縄文人のすごさ——それが今夜のタイトル「あるもので、なんとかする」である。しかも講義の2日後に退職し、「週末縄文人」から毎日が縄文人の生活へ踏み出すという、まさにその渦中での登壇となった。
前半は、道端の石ころから始まるクイズで幕を開ける。何の変哲もない丸い石は土器の内側を磨いて水を貯められるようにする磨き石、細長い石は編布(あんぎん)を編む錘——「そこに落ちている石ころは、本当にただの石ころなのか?」。縄文時代の概説(弓矢・土器=鍋・定住、そして新石器時代なのに牧畜農耕をセットにしなかった珍しさ)を挟み、足形付土板・ストーンサークル・翡翠大珠に見る「凝る心」へ。そして核心は2本の鏃の比較から。貴重な黒曜石ではなく、その辺の川の石で鏃を作れたとき、縄文人の強さが分かった。レヴィ゠ストロースのブリコラージュを経由し、「ちぎれない草」「ザラザラした石」——名詞ではなく形容詞で世界を捉えるという縄文の知性の見方が示される。
後半は前回講師の島田将喜さんが再登場し、ゼミのような対話に。縄文人はジェネラリストかスペシャリストか、労働時間3時間説はなぜ怪しいか(フォールバックフードという鍵概念)、土器の煮沸とアク抜きが変えた食の世界、縄文農耕と芋仮説。そして白眉は、相馬さんの土器の失敗談から始まる過剰模倣論の続編——「砂を2割入れる」というレシピを破ったら土器が割れた。レシピの意味は、あとから分かる。個人の直感では到達しえない知恵へたどり着くための人類の仕組みとしての過剰模倣を、前回の議論と鮮やかに接続して閉じた。
CONTENTS講義の内容
1. クイズ──そこに落ちている石ころは、本当にただの石ころ?0:00–9:05
七沢の短い紹介を受けて、相馬さんは自己紹介より先にクイズから入る。1問目は、丸くてツルツルした何の変哲もない石。正解は土器の内側を磨く「磨き石」である。縄文土器は「土の器」と書くから容器と思われがちだが、実際は液体を入れて火にかける鍋だった。ただし野焼きで焼かれる縄文土器は、ホームセンターの植木鉢のようにスカスカで、そのままでは水が染み出してしまう。そこで縄文人は、成形の翌日、粘土が固くなり始めた頃に内側だけをピカピカに磨くことで水を貯められるようにした。実際、外側が火焔型にうねる土器も、内側は必ず磨かれ、模様がない。
2問目の細長い石は、織機が生まれる前の布の作り方編布(あんぎん)を編むときの錘。縄文人も、細長い石や丸い石の両端を削ってくぼみをつけ、漁網の錘として使っていた。どちらも何の加工もしていない、ただの石。しかしそれが大事な道具になる。「現代の私たちは石ころ・土くれ・雑草・雑木と、活用できなさそうな名前で呼んでしまうが、昔の人にとってはそうではなかった。ただ僕たちがその価値を忘れているだけではないか。その辺に落ちている石ころは、本当にただの石ころなのか——という目線で、自分の周りの自然を見てほしい」。
2. 自己紹介──週末縄文人、あさってから毎日縄文人9:05–11:15
YouTubeチャンネル「週末縄文人」(チャンネル上は「縄(ジョー)」名義)を運営。秋田県出身、現在は長野県諏訪郡富士見町在住。平日は会社員、週末は縄文人という暮らしをかれこれ5年続けてきた——そして「ちょっとあさって退職するんですが」とさらりと爆弾発言。週末だけの縄文人生活が、いよいよ毎日になる。
3. ルール──現代の道具を一切使わず、ゼロから文明を築く11:15–12:40
活動のルールはただ一つ。ライターもナイフも使わず、自然のものだけでゼロから文明を築く。5年間このルールでやってきたおかげで、身近な石ころや雑草や木を暮らしに役立てられるようになり、通して感じたことがいくつもある。「僕は考古学を修めた人間ではないので、今日は基本的に、やってきて思った縄文人のすごさ、現代にも通用する彼らの優れた知性について話します」という立ち位置の表明も。
4. 縄文時代って、どんな時代?12:40–17:10
約1万年以上続いた縄文時代のポイントは3つ。弓矢の発明による狩猟採集、土器=鍋の発明による煮炊き、そして竪穴住居による定住である。世界史的には新石器時代というと牧畜や農耕がセットで入ってくるが、縄文時代は大陸で農耕が始まっていた時期にも、牧畜も本格的な農耕もないまま1万年以上定住を続けた、世界的に見ても珍しい時代だった(「農耕は最近ちょっとずつあったと言われてきている」——この含みは後半の対話で回収される)。
5. 縄文人の心──足形付土板・ストーンサークル・翡翠大珠17:10–25:20
北海道函館や青森で流行した足形付土板は、0〜3歳ほどの子どもの足形を粘土に写して焼いたもの。親の墓から出土することが多く、亡くなった乳児の足形と考えられている——写真をパシャパシャ撮って送り合う現代の親と変わらない、子への愛情のかたち。縄文後期・晩期のストーンサークルには生活痕がない。温暖だった中期には三内丸山のように最大500人規模のコミュニティがあったが、寒冷化で分散を余儀なくされた人々が、年に一度集まって「同じ村の一員だ」というアイデンティティを確かめ合う場所だったと考えられる。秋田出身で20年帰っていなくても「秋田生まれ」と思う——そんな土地を思う心の原初がここにある。
そして翡翠大珠。翡翠は「バカ硬い」石で、穴を開けるにはどんなやり方でも3ヶ月から半年、ひたすらやり続ける必要がある。しかもネックレスにするには1個で足りるはずの穴を、2個も3個も4個も開けた例がある。つまり何かを通すためではなく、「穴を開ける」という行為自体に目的があったとしか考えられない。生きるために直接必要ないのにやりすぎてしまう、コスパもタイパも気にせず凝りすぎてしまう——料理に使うには邪魔なくらい装飾を盛る火焔型土器にも通じる、縄文人の「凝る心」である。
6. 生きるために必要なすべてを、自分たちで集め、つくる25:20–34:10
ここから相馬さんの5年間の制作物が続々と登場する。約30日かけて建てた竪穴住居、鍋として使う土器、スゲで編んだ傘やポシェット、カラムシの繊維から糸を績んで編んだ布、そして弓矢。火起こしも毎回ゼロからやるのではない。焚き火の灰の中に残る小さな種火から空気を送って火を再生する——「種火という技術の大事さは、やってみて感覚的に分かった」。生きるために必要なすべてを、自分たちで集め、つくる。それが縄文の暮らしの全体像である。
7. 2本の鏃──黒曜石と、その辺の石34:10–39:45
今日の核心へ。相馬さんが作った2本の鏃(やじり)——右は黒曜石、左はその辺の川で拾った石のもの。歴史の教科書では「縄文の鏃といえば黒曜石」。しかし石器にできる大きな黒曜石の塊はなかなか手に入らず、譲ってもらった貴重な黒曜石は貴重すぎて練習すらできない。左右対称で薄い鏃を打製で作るのは何度も失敗するほど難しいのに、失敗が許されないのだ。行き詰まって博物館を見て回ると、黒曜石の鏃の横には必ず、何の変哲もない灰色の石の鏃が並んでいることに気づいた。
縄文人は、黒曜石だから鏃を作ったんじゃなくて、まずその辺にある石で鏃を作っていたんだ——左の鏃が初めて作れたとき、縄文人の強さを実感できた気がしたんです。
最高の素材が手に入らなければ、あるものの性質を見抜いて使い倒す。これが今夜のタイトル「あるもので、なんとかする」である。
8. 『悲しき熱帯』──ブリコラージュする人たち39:45–44:00
この知性には先例がある。レヴィ゠ストロース『悲しき熱帯』が描くナンビクワラ族の全財産は、女たちが運ぶ背負い籠ひとつに収まってしまう。中身は火起こしの木、蝋や樹脂の塊、植物繊維の束、獣の骨や歯や爪、毛皮の切れ端、羽毛、木の実や貝の殻、石、木綿……つまりほとんどが「原料」であり、彼らはそれで「必要に応じてものを拵える」。完成品を持ち歩かず、持ち合わせでその場をしのぐ——のちにブリコラージュと呼ばれる、これが彼らの強さだとレヴィ゠ストロースは言う。あるものでなんとかする力があれば、どんな自然環境でもうまく生きられる。縄文遺跡が北海道から沖縄まで日本列島の全域に広がっていることとも響き合う。
9. 「形容詞」で世界を捉える44:00–49:20
では「あるものでなんとかする」とは、具体的にはどんな知性なのか。相馬さんの答えは「形容詞」で世界を捉えること。カラムシという草は、名前を知らなくても「ちぎれない草」だから糸になる。ちぎれないという性質があるから糸になるのであって、名前が糸を作るのではない。石も同じだ。ザラザラした石は砥石に、ツルツルした石は磨き石に、ずっしりした石はハンマーに、貝殻状に割れる石はナイフや鏃になる。名詞(種名・分類)ではなく、手触りが教えてくれる性質で世界を見る——「これに気づくのに、僕は4年ぐらいかかった」。
10. 五感で触れると、なにげない自然が宝の山に見える49:20–55:30
まとめとして。五感で世界に触れると、なにげない自然が宝の山に見えてくる。そして縄文人の生きる力は、黒曜石のような特別な素材や道具の中にではなく、彼ら自身の中にあった。なお対話の中では大事な補足も。先住民は最初から用途で自然を見ているわけではなく、まず好奇心で世界を収集する——役に立つ・立たないに関係なくあらゆる草や虫に名前をつけ、生態に詳しくなり、トラブルが起きたときにその蓄積の中から「繊維になりそう」「薬になりそう」なものを見つけて即興で解決する。形容詞で見ることと、好奇心による収集は、二段構えなのである。
11. 対話──縄文人はジェネラリストか、スペシャリストか55:30–99:50
後半は島田さんが再登場。まず、島田さんが調査で長く付き合ってきたタンザニアの狩猟採集民トングェの人々の話から。彼らは一人一人が何でもできる「スーパージェネラリスト」である。理由ははっきりしていて、原野でたった一人で生きなければならない局面が実際にあるから。では——と島田さんは問う。定住し、そこそこ大きな集団で暮らしていた縄文人に、全員がジェネラリストである必要は本当にあったのか? あのエキセントリックな縄文土器を見ると、土器づくりに特化した職能集団(スペシャリスト)がいたのではないか、というのが島田さんの縄文観だ。
相馬さんの応答は解像度が高い。定住の考古学的根拠は実は土器と竪穴住居くらいで、全員がずっと定住していた証明はない。コミュニティを離れて狩りや採集の「出張」をする人もいたはずだし、縄文の命の危険(クマ・イノシシ・病気)は現代の比ではない。だから基本は誰もが一通りできるジェネラリストで、そのうえで農閑期ならぬ時期に応じて専門化する「時期的職人」はいたかもしれない、という見立て。チャットで受講生から届いていた「YouTubeでは裸足ですよね?」という質問からは、足裏感覚の話へ——裸足で歩き続けると足の裏がセンサーになり、見なくても危ないものを避けられるようになるという身体知の話題も。
そして有名な「縄文時代の労働時間は3時間」説の検討へ。この説の根拠はカラハリ砂漠のブッシュマンの食料獲得時間だが、彼らにはクルミのように殻が固く、1年中採れて放っておいても腐らないナッツ(モンゴンゴ)がある——島田さんが即座に用語を補う。フォールバックフード(いつでも採取可能な最低限の食物)だ。海沿いの縄文人には磯の貝というフォールバックフードがあったが、山の縄文人にはない。環境が違いすぎて、単純に当てはめることはできない。話は縄文農耕へも及ぶ。土器で煮てアク抜きできることは決定的で、「普通の動物には食えないものが食える」ようになった。土器の圧痕からは栽培種レベルに大きい大豆や雑穀も見つかり始めている。デンプン質が土に残らないため証明は難しいが、タロイモ(里芋)が縄文にあった可能性、アフリカの狩猟採集研究のワイルドヤム仮説、西表のキャッサバ談義まで、「芋はすごい」の一言では終わらない縦横無尽の展開となった。
12. 過剰模倣と土器づくり──レシピの意味は、あとから分かる99:50–118:20
前回からの宿題だった過剰模倣に、相馬さんは自分の土器の失敗談で応える。天然粘土を5日間こねると、紐状にしてぐにゃりと曲げても切れない最高の粘りになる。ところが、それで作った立派な土器は乾燥中に割れた。縄文土器のレシピには「砂を2割入れる」とある。砂は水を吸わないので乾燥時の収縮を抑えるが、入れるほど粘りは失われる——アンビバレントな関係だ。せっかくの粘りを砂で殺したくないと自己判断でレシピを破った(砂を減らし、むしろ粘土を足した)結果、縮みすぎて割れたのである。
レシピ通りにやる、というのが多分、過剰模倣だと思うんです。個人の直感や経験則では到達しえない高度な技術や知恵にたどり着くための。
島田さんが心理学の知見で受ける。過剰模倣は「何も考えずに真似る低レベルな行為」と思われがちだが、おそらく逆である。人類の3歳以下の子どもは「物事にはすべて理由がある」という前提で世界を見る、過剰に因果を読み取る能力に長けている——シャーロック・ホームズ型の推論、アブダクションだ。犬は同じ実験を繰り返すと無駄な手順を省いて合理化していくが、人間の子どもは「無駄かな」と気づいてもなお、何か意味があるのだろうと思い続けてやり続ける。
相馬さんはトチ餅のアク抜きの例を重ねる。1ヶ月がかりのアク抜きは土地ごとにやり方が違い、守り続けるおばあちゃんに理由を聞くと「うちの母さんがこうやってたから」。コスパや理屈で考え始めると伝統は残らない。島田さんが構図を整理する——ベースは個人の直感と経験則。それを模倣し、崩し、もう一度経験と直感で作り直し、また模倣する。両方が必要なのだ。そして現代は教科書に何でも書いてある「過剰模倣時代」であり、失われているのはむしろ直感と経験則の側。慣行農法も親から子へ伝わる「新しい伝統」の過剰模倣にほかならない。相馬さんいわく、縄文から現代まで最も強固に再生産されているのは、この技術史の第7回で扱う古代メソポタミアの都市文明——資源を食い尽くす形の再生産である。最後に島田さんから学問的な注意も:過剰模倣は心理学の専門用語で、今日話したのは3歳以下の子どもの実験の話。大人や社会への拡張は、別の議論として丁寧に。
13. クロージング──次回は「マテリアルから見る人類の歩み」118:20–123:43
「すいません、2日後に退職される相馬さん、ぜひ自然薯植えましょうよ」と七沢。里芋を植えようと思っているという相馬さんと、フィールドで一緒に活動する約束が交わされた。次回10月1日(木)は沓名貴彦さん。人間にとっての象徴である装飾品、なかでも専門の金属(非鉄金属)を軸に、「マテリアルから見る人類の歩み」を辿る。「その時にまたこの4人で、続きの議論もできたら」。
SUMMARY今夜の要点
- あるもので、なんとかする縄文人は黒曜石だから鏃を作ったのではなく、まずその辺の石で鏃を作っていた。最高の素材ではなく、身近にあるものの性質を見抜いて使い倒す——これが縄文の知性の核心。
- ただの石ころは、道具である丸い石は土器の内側を磨いて水を貯められるようにする磨き石、細長い石は編布の錘。「そこに落ちている石ころは、本当にただの石ころなのか?」
- 縄文は農耕・牧畜をセットにしなかった新石器時代弓矢・土器=鍋・竪穴住居による定住。大陸で農耕が始まっても、1万年以上そのスタイルを続けた世界的に珍しい時代。
- 行為自体が目的になる「凝る心」バカ硬い翡翠に半年かけて穴を開け、1個の玉に3つも4つも穴を開ける。足形付土板の親の愛情、ストーンサークルの土地を思う心とともに、縄文人の心が遺物から読める。
- 名詞ではなく、形容詞で世界を捉える「ちぎれない草」だから糸になる。ザラザラした石=砥石、ツルツルした石=磨き石、貝殻状に割れる石=ナイフ。性質で見れば、なにげない自然が宝の山に見える。
- ブリコラージュ——生きる力は彼ら自身の中にあるナンビクワラ族の背負い籠の中身はほとんどが「原料」で、必要に応じてものを拵える。あるものでなんとかする力があれば、どんな自然環境でも生きられる。
- 労働時間3時間説はフォールバックフードで崩れる根拠のブッシュマンには1年中採れるナッツがあった。海の縄文人には貝があるが、山にはない。環境の違いを無視した比較はできない——土器の煮沸・アク抜きと縄文農耕の議論へ。
- レシピの意味は、あとから分かる「砂を2割」を破ったら土器は割れた。過剰模倣は、個人の直感や経験則では到達しえない知恵にたどり着くための人類の仕組み。ただし現代は「過剰模倣時代」で、失われているのは直感と経験則の側でもある。
APPENDIXチャット欄から(匿名要約)
- (鏃のクイズ中、すかさず)「右は黒曜石ですか?」——正解。右が黒曜石、左がその辺の川の石の鏃。
- 現代の価値観と縄文の価値観には通じるものがある、という話が気になる。恐怖と好奇心がせめぎ合うのでは? 両方の生活を横断して湧いてきた感覚はあるか。
- YouTubeでは裸足ですよね? 一歩踏み出すのも面白いし、怖い。現代人との違いは、試行錯誤のときに賭けなければならない要素の大きさな気がする——対話での足裏感覚の話につながった。
- フィールドワーク、「楽しみ:怖さ=9:1です!(笑)」
- (感想)過剰模倣した方が「よい」背景には、やり方が本当にうまいから(血で書かれたマニュアル)というパターンと、そのまま守ることが大事だから(神事)というパターンがあり、さらに集団内で波風を立てないためという第三の要素もありそう。縄文にもあったのだろうか。いろんな○○学を掛け合わせて学ぶべきだと分かってきた——島田さん・相馬さんの両講師が👍で反応。
- 島田さん「今日の話もそうですが、『遊び』とは親和性が高いですね」——第2回のテーマと美しく接続して閉幕。