OVERVIEW概要
全8回の技術史講座の初回。300万年を超える技術の歴史を「石器からAIへ」という一本道の進歩の物語としてではなく、人間の身体・暮らし・社会・自然との関係を何度も組み替えてきた複雑で多様な営みとして捉え直す——その見取り図を、企画統括の七沢智樹が提示した。第2回以降を担当する島田将喜さん・相馬皓介さん・沓名貴彦さんの3講師も最初から最後まで同席し、要所要所で対話が展開される、初回からきわめてインタラクティブな回となった。
前半は、テクノロジーの相対化。「技術=テクノロジー」はわずか5世代・一つの系譜にすぎず、科学と技術が結びついたのは19世紀後半。その源流は中世の3大発明(時計・印刷・望遠鏡)を経て、5000年前の古代メソポタミア——灌漑と備蓄と権力の技術——に至る。そのうえで視線を足元へ転じ、私たちの日常には旧石器時代のままの技術が転がっていること、そして眠っている技術を掘り起こすことは新しい技術を開発することと同じ価値があることが示された。チャット欄では「旧石器のままの技術」を受講生と探すワークが行われ、つまようじからニホンザルのデンタルフロス、すりこぎと石皿、ガラス器の考古学まで、講師陣の専門知が噴き出す時間になった。
後半は、技術史からの技術哲学。道具の誕生(330万年前・ホモ属誕生以前)、火の誕生がもたらしたもの(料理仮説・闇と語り)、道具と言語・社会・意識の関係が論じられ、相馬さんのアイヌの植物名(アニ=繊維の木、カリンパ=ぐるぐる巻くもの)や島田さんの「真の模倣はヒトにほぼ固有——サルマネはサルにはできない」という議論へ発展。最後はノスタルジーの罠を戒めつつ、道具が誕生の時点から抱える四つのジレンマ(内でも外でもある/拡張するほど失う/使いこなすほど見えなくなる/止まれない)が「技術問題の起源」として提示された。「縄文には戻れない。しかしその視点から、テクノロジーを内側から破ることはできる」——次回以降の7回へ向かう地盤が据えられた。
CONTENTS講義の内容
1. 導入──科目のねらいと、技術哲学のおさらい0:00–11:48
「技術史の講義というのは、他になかなかない。聞いたことがないですね、技術史のレクチャー」。冒頭で七沢は、進歩史観——火を発明し、鉄が発明され、科学が発展して豊かになっていく直線的な見方——が、過去の技術を「遅れたもの」とみなすことで技術の本質と、埋もれた技術の価値を見えなくしてしまうことを指摘。過去は終わったものではなく、今ここに積層している。過去に深く遡ることで「未開の未来」の可能性を掘り起こす、という科目全体の方針が示された。
続いて、月曜まで開講していた技術哲学のエッセンスをおさらい。技術とは生き物がそれぞれの環世界——その生き物にとっての経験世界——を作る技であり、どのような技術を発揮するかは、どのような世界を作るかをそのまま意味する。世界は「与えられたもの」ではなく「作られ続けているもの」であり、だから作り変えることができる。一方でテクノロジーは、生産性・効率性のために人間や自然を資源として狩り立てる西洋近代の一つの技術のあり方(ゲシュテル)にすぎず、その帰結が気候変動をはじめとする惑星的危機である。求められるのは、自然の生態系の豊かさを最大限に引き出す技術への転換——そのヒントを、過去の技術の中に探しにいくのがこの技術史である。
2. 全8回の地図と、今夜の問い11:48–20:53
「技術史っていうと、学会でも扱うのはだいたい産業革命以後。それより前はプレヒストリー(先史)のセッションでした」(沓名さん)。書かれていない「遡る技術史」を編み直すこと——テクノロジーの傘の覆いの下に息づくプレヒストリーからの技術に着目し、それを現在と未来に投影して異なる未来を発見することが、この講座の企てである。
全8回の地図の紹介はそのまま講師陣との掛け合いに。第2回の島田さんは「技術史でいきなりチンパンジー。チンパンジーの道具使用は独特なので、しっかりお話ししたい」。第3回の相馬さんはこの日、「会社を辞めて、週5で縄文人をやる『平日縄文人』になります」と宣言して場を沸かせた。第4回の沓名さんはマテリアルから、第5回小島孝夫さん(民俗学)・第6回酒井朋子さん(人類学)・第7回小泉龍人さん(考古学)と、それぞれの学問のレンズで過去の技術が映し出され、最終回は総括対談となる。今夜の問いは3つ——いかに「技術」によって「世界」は形作られてきたのか。過去の人たちはゲシュテル的ではない形で技術をどう発揮してきたのか。そして、そもそも技術とは何か。
3. PART 1 テクノロジー史──誕生から、最も古い起源メソポタミアへ20:53–27:31
テクノロジーとは、産業革命によって誕生した一つの技術のあり方である。技術は何百万年も遡れるが、科学は後から生まれた——だから「科学があって初めて技術が機能する」という捉え方は根本的に間違っている。日本の山梨あたりなら3世代前、戦前まではインフラもなく、「縄文にちょっと毛が生えたぐらいの暮らし」だった可能性すらある。テクノロジーの歴史はそれほど浅い。膨大な数のテクノロジーが生まれて身の回りを置き換えていったから、すべてがテクノロジーで作られているように感じるだけで、「考える」という営みそのものは何百万年も変わっていない。
そのテクノロジーの種は中世に撒かれていた。時計・印刷・望遠鏡の3大発明が、時間概念・メディア・科学の土台を作り、「世界は時計仕掛けだ」という宇宙観を生んだ。七沢はここで現代を重ねる——時計が出てきたときに人類が感じた万能性と、AGIが出てきたときに感じている万能性の感覚。神が世界を作り給うたという前提(世界の背後にロゴスがある)があるからこそ、欧米ではAGIが「神の後継」として脅威にも希望にもなる。宗教観と技術の関係は「技術の人類学」で正面から扱われる。
さらに遡ると、古代メソポタミアに行き着く。灌漑農耕が自然の支配と管理を始め、生産性の爆発が備蓄と分配を生み、働かなくていい特権階級——都市と権力構造——を生んだ。テクノロジーの最も古い起源は、農耕と都市の誕生である古代メソポタミアだろう。この話は第7回・小泉龍人さんの独擅場になる(予習には小泉さんの『都市の起源』講談社選書メチエ)。
4. PART 2 変わらないボトム──足元の旧石器時代27:31–35:13
この5000年を超えて技術を捉え直すには、まず足元を見る。たわしでこする、洗濯をする、箸で食べる、料理する、寝床を作る——何万年、何百万年前からあり、下手をすると動物も同じように発揮する技術を、私たちは毎日使っている。料理・衣服・建築の基本構造は産業革命でもAGIでも変わらない。「私たちは生身の身体を持って生き続ける限り、人類が滅亡するときまで同じなんですよ」。道具は能力を拡張するものであって、身体を置き換えるものではない(マインドアップローディングはできない、と意識研究財団の代表理事でもある七沢は断言する)。
ヤシの実を割ればコップになり、竹を切ればコップになる。いま使っている陶器も、釉薬を塗っただけで中身は縄文土器と同じ焼いた粘土だ。こうして日常の技術は過去へシュッと遡れる。そして使われていない技術——眠っている技術——に気づいて再発見すれば、それは新しい技術を開発することと実質的に同じ価値がある。「新規性」は特許・資本主義・科学の文脈で意味を持つだけで、「新しいものじゃないといけない」というのは消費喚起の洗脳かもしれない。七沢家でいちばん活躍しているたわしは、西表島で自作したシュロのたわしである(「どのたわしよりも落ちる。テックキャンプに来たら一緒に作りましょう」)。相馬さんのキッチンにも「機能するから」ジャングルの道具が混ざっているという。
5. チャット対話──「旧石器のままの技術」を探す35:13–47:41
ここで予定していたブレイクアウトを変更し、チャット欄で「日常で使っている、旧石器時代のままの技術」を出し合うワークに。講師陣もカメラをオンにして、初回から縦横無尽の対話が始まった。
おもし。つまようじ。デンタルフロス——島田さんから驚きの事例:飼育下のニホンザルがイノシシの毛を抜いて歯の隙間を掃除する行動を「発明」し、それが集団内に伝播していくことが知られている。すりこぎと麺棒——相馬さんによれば、磨製の石棒はあるが実用痕が乏しく儀礼的なものが多い。石皿と磨石でするほうが古く、木製の臼や杵は「木が消えてなくなっているだけ」かもしれない。ガラスの器——沓名さんの解説では、ガラスは製鉄の副産物から生まれたと考えられ、日常の器になったのは近年。日本での古い破片は福井・一乗谷朝倉氏遺跡や大分の大友氏遺跡、江戸の街中からはワイングラスの出土例もある。籠——佐賀・東名遺跡からは縄文の大きな編み籠が出土している(どんぐりの水晒し用と言われる)。
そして縄。「縄を綯うのって、すごい楽しいじゃないですか。産業革命以前の、日常を支えるスマホみたいなものだったんじゃないか」(七沢)。大正時代には三菱が「縄ない機」を作っていた、という沓名さんの脱線も。受講生からの「当時の人は素材を見て加工法が思い浮かんだのか? ねじりを逆にしながらほどけないようにするとか、摩擦の概念があったってこと?」というコメントに、相馬さんは「撚り合わせの技術を発明した人は本当にすごい。起源がいつか分からないくらい古いようです」と応じた。
6. PART 3 古代技術の誕生系譜──330万年の地図47:41–57:45
打製石器330万年前、火の使用約100万年前(50万年とも)、認知革命が7万年前ごろ——そして灌漑・車輪・文字・鉄・産業革命・AIは、年表の右端のごくわずかな部分に圧縮される。「文明」と呼んでいるものは、技術史330万年の端の一瞬にすぎない。そのスケール感を掴むための参考として、Étienne Fortier-Duboisによるインタラクティブ可視化「Historical Tech Tree」も紹介された。スポーク車輪ひとつ取っても系譜を遡って辿れる——「私たちが使っているありとあらゆる技術には、起源とつながりがある」。
ただし、生活の中心にあった技術ほど腐って残らない。残るのは石と骨ばかり——だから「石器時代」と呼ばれてしまう。その観点から縄文も捉え直す必要がある。日本列島の特異性の話では、相馬さんから北海道・垣ノ島遺跡では約6000年にわたり人が住み続けたという驚きの事例が。「自滅することなく6000年、狩猟採集生活をサステナブルに続けていた祖先——ちょっと想像できない」。縄文土器も世界最古級である。一方、文字・車輪・鉄は意外と新しい。プラトンは2500年前にすでに「文字は書き手の意図と関係なく流布して災いを引き起こす」と言っていた——「完全にSNSの炎上の話ですよね。プラトンはSNSを予言していた」。
7. 質疑──「西洋史観」をどう乗り越えるか57:45–1:07:04
受講生からの「西洋史観的に捉えるとはどういうことか。フィッシュボーン(系統図)以外のまとめ方が想像つかない」という質問から、初回のハイライトとなる議論に。沓名さんはグローバルヒストリーの視点を挙げる——中世ヨーロッパはキリスト教史観に染まりサイエンスが潰される社会で、技術を牽引したのはイスラム社会と中華だった。「今でこそヨーロッパが『我々が文明の中心だ』と言いたがる西洋史観が作られているが、そうではない」。
相馬さんは民俗学者・宮本常一の言葉を引く——技術とは「命をつないでいくための工夫」。石斧も火起こしも土器も、命をつなぐために必要な技術だった。ところが車輪は権力者に穀物を運ぶ道路とセットで生まれ、楔形文字は支配の道具として生まれた。「昔の技術であればあるほど人の命に関わっていて、後の技術になるほど、一部の人が乱用したり、余暇を生むものになっていく」。七沢はこれを受けて、そもそも「一つの起源から分岐した」と説明すること自体、支配者が好む説明知であると指摘。西洋近代に対抗して新たな秩序を打ち立てる試み(近代の超克)はすべて失敗してきた——重要なのは構造の転覆ではなく、それぞれがヒントを得て「生きるために何かを作り出す」スイッチが入ることだ、と講座の狙いを重ねた。
8. PART 4 技術史からの技術哲学──道具・火・言語・意識1:07:04–1:35:18
後半は問いのパート。人間の道具はいつ誕生したのか——ルロワ゠グーランの言うように、直立二足歩行が手を空け、脳・手・道具のフィードバックループが回り始めた。道具を作るためには道具が必要で、そのためには森が、木が、水が要る——道具は連関して、人間の住まう世界そのものを形作っていく。どのような道具体系を使うかによって、どのような世界に住み、どのような神話を語るのかまで変わってくる。
その決定的な例が火である。道具とは身体機能の外化であり、外化によって能力は拡張する。火は消化器官の外化——先に柔らかくすることで食べられるものが増え、消化に使っていたエネルギーが脳に回った(ランガム『火の賜物』の料理仮説)。焚き火は闇を生み、光と闇のコントラストの中で歌と踊りと神話——語り——が生まれた。そして人間は、火なしでは生きられない身体になった。だから原初技術実践(10月)の初日は「ひたすら相馬さんと火起こし」である。
道具は行為を分節化する。ナイフを持てば「切る」が発動し、置けば消える——行為がオブジェクトに紐づいて切り出され、並べ替え可能になる。これは思考や言語の構造と密接に関わる。さらに七沢は、モノ(オブジェクト)の誕生が意識の形成にも関わっていたのではないかという執筆中の書籍の議論を「ぶっこんだ」。
ここから言語をめぐる白熱の対話に。相馬さんはアイヌの植物名を紹介する——オヒョウは「アニ」(ア=繊維、ニ=木)、山桜は「カリンパ」(ぐるぐる巻くもの:樹皮をテープ状に剥いで弓に巻き強化する)。世界の捉え方に、自分たちの使う道具が密接に関わっている。七沢は宮本常一を引き取り「命をつないでいくための工夫が最優先なら、言語もそこに引き出されて発達したはず。熟練者の罠の『見えているあり方』を言葉が抽象化するから、技術は継承可能になる」。一方、相馬さんの「理屈っていらないのでは? 成功した人をただ真似すればいい」という問いに、島田さんが専門から答える——真の模倣(イミテーション)は、意味も目的も分からなくてもやってしまう能力であり、ヒトにほぼ固有。サルマネはサルには決してできない。人の学習は模倣に強くシフトしており、だからボタンを押すだけでスマホが使える——累積的な技術の背景を知らなくても。「チンパンジーの技術とどこがどう違うのか、来週議論したい」と次回への橋が架かった。
9. PART 5 技術問題の起源──道具のジレンマ1:35:18–1:50:00
最後のパートは、ノスタルジーの罠から。過去に遡って「昔は良かった」と言ってしまうと技術の問題が見えなくなる——技術問題の起源は縄文よりも旧石器よりも前、道具の誕生の時点からあるというのが七沢のオリジナルの議論だ。①道具は内でも外でもある——黒曜石が尽きて死んでいった祖先は無数にいたはずで、道具とは根本的に危うい。それでも使っているときは一体化して、外にあるとは思えない(「まさかこの危うい電気とソフトウェアで皆さんと会話しているなんて、みじんも思っていない」)。この分離の恐怖こそ、AIを脳にインプラントしたいというサイボーグ化欲求の根にある。②拡張するほど失う——プラトンは文字(外部記憶)が「内側から思い出す能力」を失わせると批判した。かつて神話は口伝で丸ごと暗記されていたが、いまや電話番号すら覚えられない。③使いこなすほど見えなくなる——電気のない世界が想像すらできない。④そして止まれない。
かつてこのジレンマは、戒めの神話として語り継がれていた——イカロスの翼、荘子の「はねつるべ」(機械に頼ると機心が生まれる)。相馬さんはポトラッチ(北米先住民の、富が集中しすぎないよう蕩尽し合う制度)やトンガの贈与合戦を紹介し、縄文中期の「やりすぎる土器」——こんなに派手にしなくていいのに、という装飾過剰——に人間の本性を見る。ただし、と七沢は釘を刺す。「我々はポトラッチできないんですよ。『これは最適な富の再分配だ』と考えちゃう。近代的な身体を持っている以上、それは捨てられない。だから縄文に戻ることは絶対にできない。だけどその視点から、西洋近代的なあり方を内側から更新すること——内破——はできる」。この視点で、これからの技術史を捉えてほしい。
10. 次回への接続──3人の講師から1:50:00–1:58:21
締めくくりは、3人の講師による次回以降の予告。島田さん(第2回・9/24)は「言語なしのチンパンジーの技術とはどういうものか。道具に道具を組み合わせる累積的な技術はチンパンジーに見られるのか。言語がないと技術は伝えられないのか——そんなことないよね、ということをチンパンジーの事例で確認したい」。言語の起源については「必要なことではなく、噂話——ゴシップ——をわちゃわちゃ話していたという仮説がお気に入り」。西表島での生活経験からも「できるようになったことは、言葉がなくても最終的にはできるようになったろうと思うものばかり。技術が言語に先行する」と語った。
相馬さん(第3回・9/28)は「縄文人のすごさは、北海道の縄文人が沖縄の無人島に放り出されても、全然違う環境でナイフになる石を見つけ、糸を作り、屋根を葺けること。その場にあるもので生き抜く能力がなぜ可能だったのか、石や木や草を縄文の人たちはどう見ていたのかを話したい」。沓名さん(第4回・10/1)は「非鉄金属の調査を続けてきた人間として、縄文から続く装飾品の材質の変化から、金属やガラスがどう使われてきたか、そして宗教や風俗の中で人間がどう変わり、人がどう移動して技術が伝わったかを話したい」。「ちょうど30分過ぎまして」——2時間の初回は、熱量そのままに幕を閉じた。次回は9月24日(木)、島田将喜さん「動物の遊び・道具使用からみる技術の起源」。
SUMMARY今夜の要点
- 進歩史観を降りる「石器からAIへ」の一本道は、過去の技術を「遅れたもの」とみなし、技術の本質と埋もれた技術の価値を見えなくする。過去は終わっておらず、今ここに積層している。
- テクノロジーはわずか5世代科学と技術の結合は19世紀後半。種は中世の3大発明に、最古の起源は5000年前のメソポタミア(灌漑・備蓄・権力)にある。
- 足元の旧石器時代料理・衣服・建築の基本構造は不変。生身の身体で生きる限り、原初的な技術は人類が滅亡するときまで使われ続ける。
- 眠っている技術の再発見使われていない技術を掘り起こすことは、新しい技術の開発と同じ価値がある。「新規性」は資本主義の文脈で意味を持つにすぎない。
- 技術には起源とつながりがある330万年の年表で見ると「文明」は端の一瞬。ただし書かれた技術史は「残ったものの歴史」であり、腐って消えた生活の技術こそ本体だった。
- 道具が人類を作った脳・手・道具のループ(ルロワ゠グーラン)、火による消化の外化と脳の発達(料理仮説)、行為の分節化と言語・社会・意識——道具の誕生がサピエンスの営みの前提を形作った。
- 真の模倣はヒトに固有意味も目的も分からずに真似してしまう能力が、累積的な技術と人の学習を支えている。サルマネはサルにはできない(島田)。技術は言語に先行する。
- 四つのジレンマは地盤である内でも外でもある/拡張するほど失う/見えなくなる/止まれない——道具の誕生時点からある技術問題の起源。縄文には戻れないが、その視点からテクノロジーを内側から破る(内破)ことはできる。
APPENDIXチャット欄から(匿名要約)
- 寒い時にわざわざ運動するのは技術でしょうか?——「技術=学習を伴う機能」という視点の入口になるコメント。
- 何かを留める道具としての針、かなづち、すりこぎ、麺棒などは旧石器のままの技術では?——講師陣の考古学・民俗学談義(石皿と磨石、木製の臼は腐って残らないだけ説)に発展。
- 週末縄文人チャンネルを見ていると、当時の人は素材を見て加工法が思い浮かんだのか? ねじりを逆にして解けないようにするのは摩擦の概念があったということ?——相馬さん「撚り合わせの技術を発明した人は本当にすごい。起源が分からないくらい古い」。
- 西洋史観的に捉えるとはどういうことか? フィッシュボーン以外のまとめ方が想像つかない——本編7章の白熱の議論へ。「始点がひとつだ、ということが西洋から見た世界ということか、なんとなく分かってきた気がします」と続報も。
- 技術が生まれる経緯も様々なのですね。稲作も効率化という意味では産業革命と近いものがあるのですね——命をつなぐ技術と権力の技術という対比の受け止め。