OVERVIEW概要
全8回の最終回は、講師によるレクチャーではなく、受講生自身が「未来を、自分の言葉で描き直す」ための総論+ワーク。前半では七沢智樹が7回の講義を貫いた線——「前提の剥落」「頭で構想した以上のものは出てこない」——を振り返り、長谷川愛がスペキュラティヴ・デザインの最新の展開、ダン&レイビーの新著『ここでもなく、いまでもない』のC/Dリストを紹介する。
中盤では七沢が、ハーヴィー・ホワイトハウス『本能の人類史』が挙げる3つの本能——順応主義・宗教性・部族主義——を補助線に「つくる」を問い直し、原島大輔がその枠組みそのものに「真っ向から反論」して惑星的想像力を提示する。後半は受講生が「自分は何をつくってきたか」を書き出し、人類史に遡り、そこに働く本能を見つめ、創造を可能にする側へ・群れから惑星のスケールへとリフレーミングするワーク。答えを一つにまとめず、「分からないものを考え続ける」ことを次の科目群へ引き継いで、テクノロジーの未来学は幕を閉じた。
CONTENTS内容
1. 導入──7回で何が起きていたのか0:01:30–0:09:45
七沢はまず、受講生から寄せられた113件の感想をAIで分析した結果をもとに、7回の軌跡を一枚にまとめる。松島倫明の「脱未来化/再未来化・複数形の未来・鉄の馬」、梶谷健人の「ビルダー・入口と出口」、高口康太の「未来を構想しない中国・ジュガール・ゆるさ」、守慎哉の「止まらないこと・公共財・デジタルオフグリッド」、藤井直敬の「予測モデル・ブレーキを外す・意志と責任」、若山照彦の「遺伝資源・1000年後・時間スケールの反転」、そして池上高志の「欲望・ノイズ・『生物を見て生物を作ると生物以下』」。
ここで起きていたのは知識の獲得ではなく「前提の剥落」だった——中国は「統制された国」から「足元の試行錯誤から未来が生成される場」へ、ブロックチェーンは「投機の道具」から「止まらないための公共インフラ・思想を持った技術」へ。それぞれの回で視点の転換が起きていた。
さらに、同じ構造が3つの回に現れていたと指摘する。第1回の「鉄の馬」(蒸気機関×馬車の想像力)、第5回の「予測モデル」(意志を発揮しても無意識の予測モデルに沿った錯覚になりうる)、第7回の「生物以下」(生物を見て生物を作ると生物以下にしかならない)。
頭で構想したものからは、構想した以上のものは出てこない。 — 七沢智樹(0:07:41)
受講生の感想の中には、「未来を積極的に構想しようという態度そのものが西洋的価値観なのではないか」「理性で未来をコントロールしようとするほど、その知性の限界から新しいものを生み出せなくなるジレンマがあるのではないか」という気づきがすでに現れていた。この地点から、最終回の問いが始まる。
2. A/BからC/Dへ──スペキュラティヴ・デザインの現在地(長谷川愛)0:09:45–0:37:40
「どう未来を構想したらいいのか」を受けて、長谷川愛が自身の師であるアンソニー・ダンとフィオナ・レイビーの仕事を軸に、スペキュラティヴ・デザインの10年を総括する。『スペキュラティヴ・エヴリシング』(2013)のA/Bリストは、20世紀の標準的な商業デザイン(A=肯定的・問題解決)と、彼らの実践するデザイン(B=批評的・問題発見)を対比させた22行のリストだった。
だがA/Bの後の10年は「反省の10年」でもあった。スペキュラティヴ・デザインは新規事業開発の道具として消費され、美術館の展示に閉じがちになり、「ヨーロッパのプレイヤーだけを見てアジア圏の私たちの実践を無視した批評」も現れた。その反省を経て昨年出たのが新著『ここでもなく、いまでもない』(Not Here, Not Now/BNN)であり、その結論がC/Dリスト全19行だ。
鍵になるのは「未来から降りる」という転回だ。前著のアイコンだったフューチャーズコーン(現在から広がる可能性の円錐)は、「壊れた現在」を出発点にしている限り、想像できる範囲が先に狭められてしまう。だから「未来」という言い方をやめて、ここでもなく、いまでもない(Not Here, Not Now)場所から可能性を考える。ル=グウィンの言う「より大きな現実(A Larger Reality)」——現実逃避が自由への逃避であるなら、何が悪いのか——がその源流にある。
リストの中でも講師陣が特に反応したのが11行目「What if / As if」。「もしも◯◯なら」はまだ願っている段階だが、「〜かのように」は、あたかもその世界に住んでいるかのように振る舞うことで認識のほうを変えていく——カントの統整的理念に遡る態度の転換だ。長谷川はLARP(ライブ・アクション・ロールプレイング)や代替現実ゲームを As if のツールとして深掘りたいと語り、七沢は自身のジャングルの実践をこれに重ねる。12行目の「思弁的存在論」については原島が「何が存在して何が存在しないかという境界線そのものを、違うところに引き直せるということ」と補足し、18行目「宇宙技芸」(ユク・ホイ)は技術哲学の科目へ、と接続が示された。
最後の19行目は「可能対象/不可能対象」。可能性とは何か、不可能性とは何かをガチで考え、思考の枠の外にデザインで出ていく——「テキストからさらに立体化して、生活の中につながっていく途中の具体性」こそがデザインでやることの面白さであり難しさだと締めた。
3. 3つの本能と「つくる」の問い直し(七沢智樹)0:38:37–0:57:30
続いて七沢が、ハーヴィー・ホワイトハウス『本能の人類史』(草思社)を入口に、自身の枠組みを提示する。文明をつくったとされる3つの本能——順応主義(まわりに合わせ、集団の型を写しとる)、宗教性(見えないものを信じる)、部族主義(内と外を分ける)——は、私たちを飼いならし、予測モデルの中に住むことを心地よくさせ、本当の意味でのクリエイティビティを見失わせるものとして働いている。受講生の感想にも「生まれてから縛られてきた呪い=他人からかけられてきたブレーキは全部外してよいのではないか」といった直感がすでに現れていた。
ただし本能は単純な敵ではない。創造の敵であり、条件でもある。順応主義は「みんなと同じものしかつくれなくなる」働きだが、同時に技術が受け継がれ積み上がる条件でもある(中国最古の技術書『考工記』は「その通りに作れ」と書くことで技術を発展させた)。宗教性は前提を見えなくするが、「まだ無いものを信じられる」=ビジョンを持つ力でもある。部族主義は分断を生むが、大きなものを他人と共同でつくる強度を生む。ホワイトハウスの結論は「なくせない。課題は消すことではなく使いこなすこと」。
ここにmUの視点——過去に遡る(Not Now)——を重ねると、3つの本能は認知革命以後、たかだか10万年ほどの「社会の層」の心理にすぎない。その下には数百万年スケールの「深い層」=生存の本能(食べる・身を守る・道具をつくり技を伝える)があり、「つくる」はそもそもこの層から生まれた。ホワイトハウス自身、模倣を2種類に分け、集団に属するための模倣だけを順応主義と呼んでいる——つまり「つくる」そのものは、3つの本能より深いところにある。だから3つの本能を引き算して、社会性のあり方自体を異なるものであるかのように捉え直すこともできる。
そのうえで七沢は「つくる」を再定義する。能力の証明としての「つくる」(上手につくれる人が価値を持つ、成果物で自分を証明する、AIが上手になるほど居場所が消える)から、世界への応答としての「つくる」へ。世界に働きかけ、返ってくるものを受け取ること自体がつくることであり、その〈手触り〉が世界像を更新する。畑も、授業も、対話も「つくる」に含まれ、証明ではないから優劣が発生しない。すべての人が四六時中つくり続けている。
この再定義は一周のサイクルとして描かれる。深い層の欲望から出発し、社会の層の本能を引き算して逸脱をつくり、もう一度社会の層に戻して他者に届く形にする——ここではじめて価値になる。逸脱しただけでは価値にならず、受け取りは必ず社会の層を通る。深い層に降りずに社会の層だけで回ると「5,000年の反復」になる。降りるから、組み替えられる。
さらに原島との昼間の議論を受けて加えられたのが「本能を、惑星のスケールへ」。順応・宗教・部族はいずれも「群れ」のスケールの本能だが、それを惑星のスケールに向け直す——身内の型に合わせるのではなく人類の技術史そのものを受け継ぎ、手の届く物語ではなくまだ無い惑星規模の未来を信じ、他の生き物も他の地域も未来の世代も「内」にする。ただしそれは「白人的プラネタリー」のような、特定のイデオロギーに紐づいた偽の普遍であってはならない。
本能に頭で抗うことではなく、つくることを通じて世界からの応答を受け取り、そのつど自分の予測モデルを書き換えつづける力。そして、その射程を群れから惑星へ広げていく力。 — 七沢智樹「新しい知性とは(仮)」(0:57:03)
4. 真っ向から反論する──惑星的想像力(原島大輔)0:57:30–1:15:00
惑星の話を受けて指名された原島は、「受講生の皆さんが思考するのに具合がいいと思うので、真っ向から反論しようと思います」と宣言する。「人類にはこれこれの3つの性質がある」と言うときの「人類」とは何か。それは一人一人の人のことではなく、人間を対象化し、外から観察し、データで分析したときに出てくる統計的な傾向としての人間であって、そこには一人一人が喜怒哀楽や苦しみや愛とともに生きている人生、その内面や主観は入っていない。
原島が対置するのは「顔」だ。フジロックでのマッシヴ・アタックのライブ——Neuralink、パランティアの監視技術、権力と富の映像とともに、抵抗する市民の顔、監視テクノロジーに識別される人々の顔、ドローンに殺される兵士の最期の顔が浮かび上がる。監視システムの中では単なる記号や番号でしかない人々が、その顔からは「生きている」ことが否応なく受け取られてしまう。
一人一人の中に宇宙全体が入っている。その途方もない人々がみんな生きているんだということを、まるごと想像して、常にその想像力の中で自分が何をしたらいいのかを考えられる能力——そういうものを、惑星的な想像力と呼びたい。 — 原島大輔(1:07:40頃・要約)
過去に生きたすべての人、未来に生きるかもしれないすべての人まで含めて、その全員が生きていることを丸ごと想像する——「そんなものは今の生身の人間が持てる能力ではない」。しかし、テクノロジーの「正しい使い方」を私たちはまだ知らないとよく言われる。もしかしたらテクノロジーには、この惑星的想像力を私たちに身につけさせてくれるポテンシャルがあるのではないか。単なる顔画像や番号のような形式的な記号からさえ、人々が生きていることを感受する感性を見つけられるかもしれない。
七沢はこれを受けて、「生きとし生けるものすべての生を、自分のことのように引き受けるあり方」はアンノーンズ(未知)であり、これまでの思考の延長では届かない、だからこそ「まるでそれが実現したかのように(As if)振る舞うことによって初めて分かる」と応答。3つの本能という枠組み自体も絶対ではなく、過去にも未来にも遡ってリフレーミングできる——枠を持って考え、違和感が出たら乗り越える、という最終回の方法論がここで一つにつながった。
5. ワーク──何を、いつから、どの本能で1:15:00–1:45:50
ここからは受講生のワーク。mUの4 STEP(未来を見通す→根源へ遡る→つくるを再定義→社会実装)のSTEP 1「未来を問い直す」の実践として、まずひとりで10分書き出す。
七沢自身の例——ジャングルでのギャザリングは「イベント・サービス」と書けば人類史的にはごく最近のものだが、「儀礼」として捉え直せばずっと古い営みに遡る。同じものでも、名づけを変えると遡る先が変わり、見えてくる本能が変わる。
続くブレイクアウトのルールはただ一つ、「共感しない」。「予測モデルを疑わなければならない。現実を疑え——藤井先生の言葉ですけども」。互いの発表に共感で応じるのではなく、「そこに無自覚な本能はないか」を問いかけ合う。ルームでは、受験教育に携わる受講生の「教えることは原始の時代からあった。生存の本能と承認欲求が働いている」という発表に対して、「それは大学受験という社会を無批判に受け入れる順応ではないか」という問いが返され、発表者が「実はこの業界にいながら受験には批判的で、パラダイムが変わるときには皆で墓場に向かうことになるのではと考えている」と応じる場面も。技術倫理をつくりたいという受講生、空間や看板など非言語のコミュニケーションをつくってきた受講生など、それぞれの「つくる」が本能の層まで掘り下げられた。
6. リフレーミング──創造を可能にする側へ、群れから惑星へ1:45:50–1:56:30
ブレイクアウトから戻ると、最後の書き換えワーク。ここまでに掘り下げた自分の「つくる」を、創造を止める側から可能にする側へ、群れから惑星のスケールへ向け直し、「まるで◯◯であるかのように(As if)」のフレームで、もう一度自分の言葉で書き直して感想フォームに提出する。
七沢は自身の例で締めくくる。ジャングルの実践は通過儀礼・イニシエーションを提供したいというシャーマニズム的な欲求から来ているが、コミュニティは放っておけば「群れ」になり、カルト的な没入は心地よい反面、その枠から抜けられなくなる。越境は回避にすぎない。では、どう向け直すか。
群れでありつつ、その群れを構成しているプロトコルがオープンソースになっていて、みんなで作れるし、書き換えられる——オープンな群れ。カルト的ではなく、みんなの自由を担保しつつ、惑星スケールにしたい。 — 七沢智樹(1:51:28–1:52:08・要約)
そして最終回の着地点は、あえて開いたままにされた。C/Dリスト、3つの本能と深い層、惑星的想像力——「全部、一つにまとまらない話。それが三つ重なるだけで、あんまり聞いたことのない話をしている。分からないでいいから、みんなで考えようぜ」。池上の「分かることはつまらない」というトーンとも響き合う、「分からないものを考え続ける」という態度の共有が、この科目の結論になった。
7. 最終課題とこれから1:56:30–2:04:16
最終課題は「今日の話がどう展開するか分からなかったので」翌日発表とアナウンス(表彰対象となるには2027年3月末までに提出。一度出して、後で深まったら再提出も可)。今日の流れを受けた内容になるため、思考がホットなうちに出すことが推奨された。
また、この続きは他科目に引き継がれる。技術哲学(8月17日開講)では「つくるとは何か・技術とは何か」を哲学的に掘り下げ、原島の技術の人類学、技術史、フィールド講義、そして長谷川のデザイン論概論(冬)へと続く。「今日バーッと広がったものが、哲学によってボトムから固められていく」。質問はDiscordで受け付け、技術哲学に詳しいAIボットも常駐している。
SUMMARYまとめ──最終回を貫いた6つの線
- 7回の成果は「前提の剥落」だった中国・ブロックチェーン・クローン・AI——それぞれの回で視点の転換が起き、同じ構造(鉄の馬・予測モデル・生物以下)が3度現れた。頭で構想したものからは、構想した以上のものは出てこない。
- 出発点を変える——Not Here, Not Nowスペキュラティヴ・デザインは「壊れた現在」から未来を外挿することをやめ、ここでもなく今でもない場所から可能性を考える段階に入った。What if(もしも)から As if(かのように)へ、仮定の話から態度の話へ。
- 本能は敵ではなく両刃順応・宗教・部族は創造を飼いならすと同時に、継承・ビジョン・共同の条件でもある。そしてその下には「つくる」が生まれた深い層(生存の本能)がある。引き算し、遡り、使いこなす。
- 統計の人類ではなく、生きている一人一人原島の真っ向からの反論。一人一人の中に宇宙全体が入っている。その全員が生きていることを丸ごと想像する惑星的想像力にこそ、テクノロジーの未知のポテンシャルがあるかもしれない。
- 新しい知性(仮)本能に頭で抗うのではなく、つくることを通じて世界からの応答を受け取り、そのつど予測モデルを書き換えつづける力。深い層に降りて一周するから、5,000年の反復を組み替えられる。
- 分からないものを、考え続ける最終回は答えではなく、まとまらない3つの視点の重なりで閉じた。続きは最終課題と、技術哲学・技術の人類学・技術史・デザイン論へ。
APPENDIXチャット付録──受講生の声(匿名・要約)
講義中のZoomチャットから、個人が特定されない形で主な反応を要約する。
- 「順応主義・宗教性・部族主義に片づけられてしまう感じ、型にはめさせられている違和感を覚える」——この枠組みそのものへの違和感の表明。運営からは「その観点から解釈されるもの・しきれないものの両方を眺め、枠組み自体への批判と有効性も考えてみてほしい」と応答があり、講義終盤で七沢も直接取り上げて「枠で一度考えてみて、違和感を持ったら、どうしたらいいかをご自身で考え、次に乗り越えていく。今日の枠にも良い面と足りないところの両方がある」と述べた。
- 「いろんな定規(フレーム)を使いながら、自分の頭のコリがどこにあるのかを探っていく効果を今日の講義で感じられた」
- 「グループワークで咄嗟に浮かんだ問いがフレームにはまらなかったとき、何が起こっているのか——考え甲斐がある」
- 「カテゴライズすることは必要だが、それに付随する問題もいろいろある」「カテゴライズできないものが面白い」
- 惑星的想像力をめぐっては「(そんな想像力を)持てるぞ、ぼくは」「私は難しい」「不可能だからこそ、すべての人が必要という結論に至っている」「持ったことのないものに『難しい』と思わせているのは何かをまず考えたい」と、応答が分かれた。
- 「草を刈らない畑でカボチャを作っています」という実践の共有も。
- 参考図書として、ダン&レイビー『ここでもなく、いまでもない』(BNN)のリンクが共有された。