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第2回「AIの進化の先に問われるもの──プロダクト、組織、意思決定の未来学」
受講生の感想

テクノロジーの未来学|2026年7月9日(木)|講師:梶谷健人

24件の感想
匿名掲載(原文のまま)

SUMMARY感想まとめ

AIの進化の最前線に立つ実務家ならではの切実な実感が、強い衝撃とともに受け止められた回でした。チャットAIからエージェントAIへのパラダイムシフトを目の当たりにした戸惑いと、「能力を自分の価値証明にしなくていい」という問いかけへの反響が、感想の大きな軸になっています。

VOICES受講生の感想(全文)

講義後アンケートに寄せられた感想を、氏名を伏せたうえで原文のまま掲載しています。

  1. AIの進化の先に問われるもののひとつが「アイデンティティ」というのは興味深かったです。自身はフリーランスとしてアイデンティティが問われるような職種をしているにも関わらず、実存の危機を感じたことがあまりなく、むしろ開いて溶け出していくような感覚のほうが強いのかもしれない。それは、産地というフィールドにいるから何百年続いている知に触れることが日々あるし、管理しきれないどうしようもなさに対峙する場面もあるからだろうかと思いながら聞いていました。第三の道、もしくはそれ以外の選択肢もあるような気がしているので、どうしたら実感できる人を増やすことができるのか、取り戻すことができるのかを考えるためにフィールドの重要性があるのかなと思います。
  2. インターネット、スマホに続いて、AIはまさにゲームチェンジャーであり、情報がオープンソース化されている中で、プレイヤーが交代しつつあることを、広告の仕事をしていて強く実感します。 自分自身の優位性が失われていく中で、ビルダーである事を前提として、ディレクション能力の重要性はまさに感じるところです。 その中で考えるのは、ムーアの法則の様に、正に5年後にAIの能力が1000倍になった時に、自分に残された道は常に考えていて、ゼロトゥワンである必要と、コンビナトリアル・イノベーションのどちらが良いか考えると、そのどちらかというより、如何に模倣できないビジネスであるかという点が重要だと考えます。 その中で属人性は重要になるのではないかと考えています。 AIは使えば使うほど、問いの重要性を気づかせてくれるものだと思います。 これからの作るを考えるは、mUを通しての共通のテーマではないかと感じていますが、この講義を通じて、自分の問いが更に深まり、自らが逸脱した未来を築く事が出来ると嬉しいです。 大変に勉強になりました。ありがとうございました!
    (その他)最後まで手放さないものは、身体性を伴った自己の経験だと思っており、経験の価値が今正に上がっていると感じています。
  3. 「単なるツール」から「仕事を完全に任せられるエージェント」へと、明確なパラダイムシフトが起きていることを実感しました。 その象徴と言えるのが、\*\*ClaudeCodeを単一の入り口(ハブ)とした開発プロセス\*\*です。すべての作業をClaudeCode経由で完結させ、必要に応じてMCP(Model Context Protocol)を介してGeminiやChatGPTなどの他モデルを呼び出し、オーケストレーションする。この仕組みにより、データやノウハウが自動的に蓄積され、AI自身が改善ループを回し始める。この辺りが、今起きている本質的な変化だと感じています。 これにより「一人の人間がやれる範囲」は劇的に拡張され、プロトタイピングやアジャイル開発のスピードは限界まで加速しています。そこで人間に求められるのは、何よりも「判断のスピード」です。 ただ、多くの人がこの恩恵を享受するためには、アイデアから最終製品に至る「中間製造プロセスのコスト」が限りなくゼロに近づくような、経済的・政策的な環境整備が今後の大きな力点になってくると思われます。 「作ること」自体のハードルが下がり、あらゆるスキルがコモディティ化するこれからの時代、人間にとって最も重要なのは、「問い・レビュー・価値創造」のステップです。AIが提示する無数の選択肢の中から、何が美しく、何が社会に求められているのかを見極める「審美眼」こそが、今後ますます問われるようになると思います。 かつての「情報過剰時代」を経て、これからは誰もが簡単にアプリや製品を作れる「プロダクト過剰時代」に突入します。無数のプロダクトの中から選ばれ、誰かに届けるために必要なのは、もはや優れた「機能」ではなく、「熱狂」と「世界観」かと。 「自分が最高に欲しいものを作り、それに没頭している姿」そのものが価値を生む。何かに熱中し、心から楽しんでいる人の姿は、「あんな風になりたい」という共感を呼び、人々にワクワクやドキドキを与える。これに伴いインフルエンサーのあり方も変わり、純粋な情熱を起点とした多様なプロダクトが広がり、富も多様な形で再分配されていくのが理想的な社会の形だと思います。 また、双子であっても生きる環境が異なるように、一人ひとりが持つ「ローカルな体験や経験の蓄積」こそが、AIには決して代替できない逸脱や突然変異(オリジナリティ)を生み出す源泉になるはずです。 生きるための前提条件が満たされ、SFのような世界が現実になった時、人は「生きるための積極的な意味」を見失いがちになるかもしれません。しかし、それは意味のステージが変わるだけで、大きな問題ではないと考えています。 闘争心、自尊心、自己成長感、自己効力感。これらはすべて、一種の「ゲーム的な世界」の中で満たすことができるはずです。無限にある「学ぶもの・遊ぶもの」の中から一つを自分で選び、没頭していく。探求心や知的好奇心など、心をドライブするエンジンは人それぞれ異なりますが、時代がどれほど進化しても、人間の欲望や思考パターンは「単純でいて複雑」なまま、変わることはありません。 結局のところ、AIエージェントを自由に駆使しながら、自らの意志で選び、やりたいことをやり、作りたいものを作ればいいのだと思います。内なる自発性を大切にしながら、自分が本当に好きなものをじっくりと育んでいくこと。 テクノロジーはあらゆる中間プロセスを高速化し、スキップさせてくれますが、\*\*「果物が熟すような、時間軸の違うものは決して早まらない」\*\*。この真理は、これからのAI時代をどう生きるかを考える上で、非常に大きな気づきを与えてくれました。
  4. AIを使いこなす(あるいはAIに使いこなされる)人材も確かに必要ですが、私たちが人として存在している以上、フィジカルな営みや人と人との関係性は必ず残ります。だからこそ、そこにアイデンティティは存在し続けるのだと感じました。 今後ライフスタイルや対話の手段がどれほど多様化しても、互いの存在や尊厳を認め合う関係性は失われないと思います。たとえ個人の能力や努力の差が「誤差」に過ぎない時代が来たとしても、日本的な「寄り添い」や「思いやり」を大切にできれば、その中からきっと新しいアイデンティティが生まれてくると期待しています。
  5. AI技術の進化の驚異・脅威に最前衛で携わっている方がもつ切実な実感が、その語り口や仕草から感じられ、テキストベースではない学習機会ならではのものを受け取られた気がします。韓国や日本の急速な少子化が先進諸国のケーススタディとなるように、最も進化の局面が激しい分野でのレポートに、松島さんのお話とはまた異なる衝撃を感じています。catchupしきれない自身の脳力の乏しさにもどかしさを感じることが嬉しいです。 受講しながらふと傍らにあった「山梨の桃」の話をしたことから「分野によって時間軸が違う」ことに気付かされ、梶谷さんが目の当たりにしている極端なディベロップの局面を他山の石(?)にしながら幸せな応用へと繋げられることはできないものだろうか、と考えさせられました。 アーリーアダプターになってうまい汁吸いたいとか負け組になりたくないとかいう気持ちはもちろんまったくないわけではないのですが、もっとずっと大きな意義を持った幸せを志向して行きたい、行くための地平に立ちたい、と改めて感じました。 というかそういう地平を目指さないと、手にできてもせいぜい一瞬の泡銭といったところなのだと思い知らされた気がします。
    (その他)breakout roomで七沢さん、梶谷さん、太向さんと同室する幸運に恵まれ、「人生のモチーフ」のようなものを捕まえることで見据えることのできるビジョン(Future cornなのかも)の確かさ、ビジョンを追おうと思っている人のもつ確かさのようなものに刺激と共感を受けました。 「入口と出口のことだけを考えられるようになった」というトピックを聞き、日頃から時折思い起こすようにしている「あなたの心を掴んで離さないものを生涯追い求めなさい」という誰かの言葉をまた思い出しました。
  6. AIに奪われるのは、仕事ではない。 奪われるのは、体験していない人間の言葉ではないか。 AIは、知識や言葉の領域を大きく変えようとしています。 情報を集め、整理し、もっともらしい答えを返すことは、もはや特別な能力ではなくなりつつあります。 だからこそ、これから問われるのは、うまく説明できることではなく、その言葉がどこから来ているのかだと思います。
    (その他)・AIのためのレンタル可能な人間、AIエージェントにみつけてもらう、という言葉が喉にひっかかりました。 ・日本では、気がついた人は農業に向かう(転職?企業?)気がしました。
  7. 「AI時代の『つくる』を考える」ということに関して、多角的に伺えた講義であった。 AIはどんどん進化を遂げ、これからももっと進化していくことが予見されるというデータの提示。そればかりでなく、AIが思考(と思しきもの)まで持ち得るのではないかという実験結果の紹介。チャットAIからエージェントAIとなり、元来人間が行っていた仕事の質も量も難なくカバーし、その全てがどんどん奪われていくことを講義で目の当たりにし、衝撃を受けた。 そんな中で、梶谷先生より投げられたひとつの問い。「能力を、自分の価値証明にしなくていい。生きがいも、一旦なくていい。それでも、豊かに暮らせる。そんな『第3の道』は、何か?」。 これは、根源的な問いかけでありながら、その実、この問いに対する答えは、AIが台頭していてもいなくても、本来自分の中に持っていなければならないものであり、生き方の基軸となるものなのではないかと考える。そうした前提に触れながらも、考えられることとしては、人間にしかできない、機械で代替不可能な「感情に極めて近しい部分の体験」が挙げられるのではないかと思う。 例えるならば、他者とのコミュニケーション、そこから感じられる幸福感。あるいは、創意工夫し、自身の手で作り上げる「ものづくり」の喜び、達成感。「嬉しい」「楽しい」「愛しい」といった前向きな感情も、「うまくいかない」「泣きそう」「心が折れる」というような後ろ向きな感情も。いずれであっても、その「生」の体験は、人生を何よりも磨くものとなる。 AIはどんどん人間化し、人間はアイデンティティを見失いゆく。そんな状況が起こるとしたら、それは、そもそもAIに代替できる部分にアイデンティティを見出していた人間の今日的な在り方自体が、極めて不安定で危ういものであるということの証明なのではないだろうか。人間の本来的な在り方、根源的な幸福。最新のAIを取り巻く状況を見ると、思いはここに立ち返る。このプログラムに「根源へ遡る」ことが組み込まれていることの意義に、早くも気づかされる思いがした。
    (その他)「『スキルの希少性』から、『気質の希少性』へ。」のお話に、とても得心した。 「かつては「コードが書ける」「UIが作れる」というスキルそのものがキャリアの源泉だった」 ⇒まずは技術を身に付け、実践する「ハードウェア的な部分」が必須であった。 「AIがそのスキルをコモディティ化した今、問われるのは『どんな問いを解くか/何を作るか』という目的の解像度と、それを実行に移せる気質」 ⇒「ハードウェア的な部分」を持たなくても、想像力という「ソフトウェア的な部分」さえあれば、ものづくりは可能になりつつある。 「評価軸は「どんなスキルを持つか」→「何を自らの手でビルドしてきたか」へ」 ⇒スキルは代替可能に。ビルダーとしての「創造力」が問われる。 このように理解した。ものづくりに関しては、それがどのような分野であれ、元来、「技術を身に付け、実践する『ハードウェア的な部分』」を習得しなければ(あるいは、知識として理解していなければ)、次のステップに進めないものだと認識してきた。それが、想像力で乗り越えられ、アイデアとして出せさえすれば、極めて直線的にアウトプットのできる環境が整いつつある、革新的な時代にあるのだということを感じた。
  8. AIが力を増してきたことによる「アイデンティティ的な危機」を一回だけ感じたことはあった.長い時間かけて納得のいくデザインを作ったが周囲には響かず,友人がAIで生成したデザインの方が好評だった経験がある.そのときに初めて,「AIがいいものをつくれるようになった今,自分って何のためにいるのだろうか?」という問いに直面した.そのときは,自分のエゴで無理やり押し切って,周りが渋々承知したのだが,これができるのも学生であるうちではないかと思った. また,最近まで「生きている」感じがしないときがしばしばありプチ鬱だったのだが,そのときはAIの言うことや周りの意見に合わせていたと思う. もっと抗っている時は,物事の進みがとても非効率だが,たとえそうだとしてもそこにリソースを割く価値を自分自身で見出せていると思った.それによって「逸脱」できているときはできていると思う.それこそがまさに「空間の定義そのものを書き換える」感覚とピッタリ一致している.たとえ周りの反応がどうであれ,「逸脱」できているという感覚があったときに「実存」している感覚が強く感じられる. 第3の道を開く要素はいろいろあると思うのだが,思いつく限りでは, ①関係性に自覚的であること ②思想・価値観・信念 ③こだわりをもつこと ④自分が持っている違和感や問いに素直になること といったところである. ①については,他人との関係,テクノロジーとの関係,神との関係,自然との関係など,いろいろな関係性の中で生きていることを自覚すると,自分の存在意義を確認しやすいと思った. ②思想は長い時間をかけて形成される.自分の中での軸があれば,能動的に生きることができるのではないか? ③は,こだわって何かをするときに,自分は現に楽しいと感じていることから,自分の存在意義を問う必要がなくなるため. ④おそらく②に関連すると思う.太向さんが教えてくれたように,「思考(問い)というのも内側から発せられる疑問や外から訪れる様々な情報に対してそのままだと形がなくなって秩序を維持できなくなるのを必死に形を見出して抵抗している」ことから,自分の問いに素直になることとは,「過去のバラバラになっている複数の自分を再統一して秩序立てる営み」と言える. ①~④を通して,「第3の道」を開くには,「自分の実存」がキーになってくるのではないかと思った.
    (その他)今日の講演は聞きやすかったです.あとClaude Code と一緒に作ったスライドかっこいいです.
  9. 今回の講義で示された「能力を自分の価値証明にしなくても豊かに生きられる第3の道」という問いから、かつてヨガ修行に強く傾倒していた時期を思い出した。仕事とは別の場所に自分の軸を探していたのかもしれない。しかし、ヨガにもポーズ、練習量、継続年数など別の評価軸があり、能力主義を身体や修行へ置き換えていただけだった可能性もある。 現在は、製造業でサステナビリティ規制や国際基準の導入と監査・評価を担っており、AIによって直ちに代替される危機感はあまりない。しかし、それは現在の専門性がまだ必要とされているからにすぎず、AIの進化によって、その希少性もいずれ失われる可能性がある。専門性を社会に働きかける手段として育てながら、それを自己価値の証明にしないことは可能なのか。能力の希少性が失われた先で、私は何を自分の軸にできるのか、という問いが残った。
    (その他)まとめの配信が助かります。アーカイブ動画も繰り返し拝見しています。ありがとうございます。
  10. 講義を聞いて、リアルの価値がどんどん上がっていくのかなと感じました。農家の方の話もでてきましたが、バーチャル空間で起きていることのスピード感は上がっていきますが、それが現実世界ににじみ出てくるまでには、やはり時間がかかるはずで、リアルの価値は相対的に上がっていくのだと思います。 とはいえ、結局は農業であっても漁業であっても、今後はAIを使った取り組みが実装されていくはずです。そうなると、リアルな領域も進化のスピードはバーチャルほどではないにせよ、変化はおき、将来的に、自然のリズムや自然のスピード感のようなものさえ変化させることができる時代も現実的に迫っているのかなと感じます。そう考えると、意識的にAIやロボットを使わずに、人間だけで判断したり実行したりするような領域や場所。それをいかにつくるか、守るかといったことも大事になってくるのかなと思いました。また、目的があってそこにいかに早く至るかっていうAI的な思考ではなく、その至る過程でどんな景色を見るか、どんなハプニングが起きるかを自分の中に持っておくという、試行錯誤するプロセスの中でのインプットっていうのも大事なんだろうなという気がします。その試行錯誤こそが、結局のところ人間的な、人間にしかできない部分なのではないのかな。 また、アイデンティティの損失を感じ始めている人がいる、というお話もありましたが、「具体的につくる」こと自体のハードルが下がっていく中で、「手前と最後だけをいかにやるか」というお話にすごく共感しました。最初の段階で「いかにワクワクするか」ということと、出口の段階で「いかに異なっているか(逸脱しているか)」「いかに人間的で面白いか」を判断すること。この「逸脱」がすごく大事で、それが社会の中で機能するか、共感できる人間らしさがあるか、解決策として本質的で面白いかという「判断のセンス」が、これからは問われていくのだと感じています。 「感情ミュート社会」とも言われていますが、より人の気持ちについて考えること、自分自身が人間としてしっかり感じられているか、人のことを考えられるかという、まさに人間としてのあり方が問われてくるのだと思います。 「逸脱」というのは、単に「ああ、そうだよね」という範疇に収まらないものを見つける力だと思っています。それは、少しずれた答えをいかに言えるかという力であり、特にお笑いなどはその分かりやすい例ですよね。いわゆる「正解じゃない正解」を見つける力はどうすれば鍛えられるのかと考えていたのですが、それはやはり人間生活の中で、人とどう向き合い、どう時間を過ごすかというところに尽きるのかなと思いました。 今回、2回のブレイクアウトルームに参加しました。1回目は女性だけのグループで、皆さん割と共感ベースでお話をされていました。対照的だったのが2回目で、4人部屋、50代・60代以上の男性2名と女性2名(私を含む)という構成だったのですが、その男性2人が議論になりました。お二人ともお互いの意見の合わなさを強く感じていたと思うのですが、少し強引にでも自分の意見を伝え、「どこが共感できないのか」を突きつけ合う、グーパンで殴り合っているような状態でした。もちろん本気の殴り合いではなく、ある程度ジェントルな振る舞いの中でのことですが。 こういう光景は地域社会の現場では目にすることもありますが、なんだか久しぶりで、面白いなと思って眺めていました。(私ともう1人の方がその「グーパン」の応酬にうまく入れたかどうかは微妙なところですが)、こうした人と人との「ざらつき」をどれだけ自分の中に持てているかが重要な気がします。 それは必ずしも前向きなものばかりでなくてよくて、喜びやワクワクだけでなく、腹が立つことや、美しい、可愛いと感じること。そうした生の感覚を大切にすることが、逸脱する力に繋がるのかもしれないなと思いました。 昨日の講義は、今起きていることの話だったこともあってか非常に具体的で分かりやすかったです。ありがとうございました。
    (その他)人が出力をする際に、いかに「ずれた参照」をするか、つまり自分の中で面白いと思った限られたものを参照する力は、今後ますます重要になっていくのかなと思います。 旦那が映像制作の仕事をしているんですが、去年、5歳の息子に「誕生日プレゼントは何をつくる?」と相談したら、息子が「映画をつくりたい」と言ったので、3分くらいの短い映画を作ってプレゼントしました。今年も息子から「一緒に映画をつくってプレゼントしよう」と言ってきたので、またつくる予定なのですが、家族で近所を歩いていたときに、近くにできたおしゃれな商業ビルの話になりました。立地も良くておしゃれなのにガラ空きで、1階に「いきなり!ステーキ」が入ったビルです。家族で道を歩きながら「いきなり!ステーキが入ったことで、あのビルのブランディングがぶち壊しになったね」という話をしていたら、息子が「いきなりステーキの『いきなり』って何?」とか「何が面白いの?」と聞いてきました。そこで、ステーキが提供される一般的な流れや、なぜ面白いのかを説明しました。 その日の夜か翌日、2人でつくる映画の内容について話していたときに、息子が「映像の中でこういうシーンがあって、そんでこれがいきなり登場するんだ!『いきなりステーキ』みたいに!」と言い出しました。自分ならではのレンズで見たものの面白さが、自分のつくったものに反映されるプロセスがすごく面白いなと感じました。 だからこそ、偏ったインプット、自分ならではのインプットが大切なのだと思います。すべてを学ぼうとするのではなく、学ぶものと学ばないものをいかに選んでいくかという取捨選択。そこで何を選ぶかもそうだし、リアルとどう付き合う時間を確保していくかも同様に大事なのだと、彼を見ていて思いました。彼がロボットやAIと話す時間よりも、スクリーンではないリアルな時間をどれだけ増やし、守ってあげられるか。それこそが、彼が彼らしくクリエイティビティを発揮する上でも大事なのだと感じる、面白い時間になりました。 まとまりのない感想ですいません。
  11. 今回の講義では、AIの急速な進化が個人や社会に与える影響について、技術だけでなく「人は何を拠り所に生きるのか」という実存的なテーマまで踏み込んで議論されていたことが印象的でした。 特に印象に残ったのは、AIの性能向上によって知的労働の多くが代替される未来では、「能力を存在証明にしてきたホワイトカラーほど、アイデンティティを失う危機に直面する」という問題提起です。その上で「能力を存在証明にしなくていい」「生きがいも一旦なくていい。それでも豊かに暮らせる第3の道とは何か」という問いがありました。 私は現在、ブランド戦略や事業戦略、UXデザインなど、知的労働を中心とした仕事に携わっています。その意味では、この問いはまさに自分自身に向けられたものだと感じました。しかし同時に、講義を聞きながら違和感も覚えました。 それは、「能力が価値を失うこと」と「アイデンティティを失うこと」は、本当に同じなのだろうか、ということです。 確かに、仕事において能力は重要です。成果を出すためにも、顧客に価値を届けるためにも、専門性を磨くことは欠かせません。 私にとって能力とは、自分自身を証明するものではなく、社会に価値を提供するための手段です。能力は磨くべきものですが、それが自分という存在そのものを定義している感覚はありませんでした。 これまで仕事の中で、役割や肩書きが変わることもありました。プレイヤーとして成果を求められる時期もあれば、マネジメントや組織づくりを担う時期もありました。そのたびに求められる能力は変わりましたが、「自分が自分である」という感覚が揺らいだことはありませんでした。 そのため、AIによって能力の価値が変化したとしても、「だから自分の価値がなくなる」とはあまり考えませんでした。むしろ私は、「どんな状況になっても、その状況に応じて考え、学び、選択しながら自分のできるところで生きていくだろう」という感覚の方が強くあります。これは楽観論ではなく、これまで様々な環境変化を経験してきた中で培われた経験則です。 一方で、この講義を通じて新たな気づきもありました。それは、「能力をアイデンティティの中心に置いている人」にとっては、この問いが極めて切実であるということです。 私は講義を聞くまで、自分が能力と存在価値を切り離して考えていたことを意識していませんでした。能力によって自己価値を感じている人にとっては、AIは単なる技術革新ではなく、自分の存在意義そのものを揺るがす出来事になります。講師が「ホワイトカラーにとってクリティカルな問い」と表現した背景も、そこにあるのだと理解しました。 一方で、ビジネスという観点では、この講義から大きな示唆も得られました。 特に印象に残ったのは、「中間の作業はAIが代替し、価値は入口と出口へ移る」という考え方です。コンセプトや問いを設計する力、そして人を動かし、社会へ届ける力の重要性は、私自身が日々携わっているブランド戦略やUXデザインとも重なります。 実際に私の仕事でも、デザインそのものより、「何を解くべき課題なのか」「誰にどのような価値を届けるべきなのか」という問いを整理する時間の方が、プロジェクトの成否を左右します。AIによって制作や分析のコストが下がれば下がるほど、このような上流設計の価値はさらに高まっていくと感じました。 また、「ビルダー」という考え方にも共感しました。ただ知識を持つだけではなく、自ら形にし、社会へ働きかける人が価値を持つという考え方は、AI時代に限らず、これからの組織や個人に求められる姿勢だと思います。 最後に、講義の締めくくりとして提示された「第3の道」という問いについて、私は少し異なる答えにたどり着きました。 私にとって第3の道とは、新しい生き方を探すことではありません。能力がある自分も、能力が発揮できない自分も、生きがいを感じられる時期も、そうでない時期も含めて、「どんな状況でも私は私である」と受け入れながら生きることです。 能力は人生を豊かにする大切な道具です。しかし、それは自分自身ではありません。AIによって社会の評価軸が変わる時代だからこそ、自分の存在価値まで外部の評価に委ねないことが、これからの時代を豊かに生きるための一つの考え方なのではないかと感じました。 この講義を通じて、私は「能力を存在証明にしなくてもよい」という新しい価値観を学んだというよりも、「自分はもともと能力を存在証明にはしていなかった」ということに気づくことができました。それこそが、今回の講義から得られた最も大きな学びでした。
  12. AI時代における実存危機みたいなところ、より簡単に言えば幸せに生きれるの?という点については、まず「①物理的な社会・生活保障のインフラ(十分な衣食住等)をどう整えるのか」という点と、「②個人の認知をどう変えるか」という点を考えるべきと思います。アイデンティティをどう保つのみたいな②の話は、①があってはじめて考えられる話であって、そこの視点が抜け落ちていて、結構ここが今後重要な問題だと思っています。①については、今日のような能力がAIに代替されるみたいな話だけではなく、そこで生まれた富をどう分配するのかといった話や新しい仕事・産業へどう人を移動させていくのか、社会・生活を保障する枠組みとしての国家(我々なら日本)をどう維持・進化させていくのか、というところまで考える必要があり、個人的には良い解決法を(AIなりが考えて)発案できたとしてもそれを人間が政治的に合意できるか、というところが一つハードルな気がしています。人間のアイデンティティみたいな話は、また人々が(今では想像もつかないような)新しい仕事に就き、そこでそれなりにみんな保つのではとも思います。そういった変化の激しい状況下において大事なのは(ここが②についてですが)、自分をメタ認知することだったり、歴史や宗教、哲学なんかを知ることだったり、とにかく多様な考えを知るのが大切だと思います。人間はそもそもその日暮らしで、豊かで暇になったからこそアイデンティティみたいなことを考え出すものだよね、とか、別に誰かの役に立たなくてもそれなりに楽しく生きれたらそれでいいじゃんみたいなニート的な思考だったり、もっと自分の認知や考えを相対化していろんな考えを知るだけで、随分楽になるのではと思います。とにかく、安全保障含めてまずは①をみんなでどう作れるのか、がより重要な問いだと思います。
  13. ・ボトルネックが移動する話、入り口と出口にディレクション価値が移る話など興味深かった。一方で、デジタル世界とビジネス競争を前提にした話にも聞こえていて、AI時代におけるあらゆるつくる行為に通ずるかは判断留保したいと思った。例えば、AIが代替すると主張された作り方(実装スキル)と人は相互作用し、自ら手を動かしてつくるからこそ、自分の作りたいものをより深く理解する契機になるため、ボトルネックでなくても、AI任せにしづらいのではないか。 ・p42-p43における事業を回せる数の増大に伴い、新規事業創造力がクリティカルな企業競争力という主張については強い疑問が残った。競争力や事業数に重きを置いた新規事業に対して、生活者は心を動かさないと思う。 ・不確実な時代に強みが無力化されやすいという一連の内容を見て、能力を自身の強みに置く限界があると確かに感じた。市場競争における強みは、何かをつくりたいという情熱にあり、それはどこから生まれるのか。自分にとって、それは世界と自分のより良いつながり方に対する探究心、探究的アイデンティティなのではないか。一方で、強みや他者目線の価値を求められない自分価値の世界を生きるバランスも保つことが重要ではないか。
  14. AIが進化する中で、ホワイトカラー領域においては、入口(問い、課題設定)と出口(クオリティ管理、届ける)が重要になり、中間の作業の価値が下がる点は、普段自分が感じていたことでありとても共感した。その場合に、クライアントワークにおいては、いかに入口の部分から依頼されるかが、重要であると感じた。 私が関わる建築・空間づくり領域においては、入口の部分から依頼される場合は、その依頼の定義自体(プロジェクトの目的、条件、予算)から問い・提案することも可能となるが、作業と出口のみを依頼される場合は、AIによる生成画像・完成パースをクライアントから見せられ、いいからこのイメージのものを作ってくれと言われることが想定され、後者の場合は、実存の危機に陥ると感じた。 いかに、その危機を避けるか。今回の講義を聞く中で、そのヒントは、多角化しつつ、その中で自分が偏愛しているものに気づき、育てていくことはでないかと感じた。自分の愛を育て表現することで、その愛の存在にクライアント側が気づき、「愛のある人にお願いしたい」「愛があるからこそ、逸脱した提案やものづくりをやってくれる」との期待により、入口の部分から依頼されるのではないかと考えた。
  15. 今回もっとも引っかかったのは、「AIによってつくる力が全員に配られたので、これからは一人ひとりがビルダーになる」という考え方です。スマホやPCがあれば多くの人がAIへアクセスできることを、つくる手段の民主化と呼ぶのであれば、それ自体は大きな可能性だと思います。ビルダーとして自ら問いを持ち、AIを使って形にしていくことも、これからの時代を生きる有力な手段であることは確かです。 一方で、「誰でもつくれる」が「だから全員がつくるべきだ」に変わると、何をつくりたいかという自発的な意思を持たない人が、主体性や意欲のない人として見られる危険があります。技術や専門性を競う能力主義から、問い、情熱、越境、世界へ作用する意思を競う新しい能力主義へ移るだけなのではないか。昨年、自分が論文で書いた「越境者」も、一人でさまざまな領域へ手を出せる人でなければならない、という圧力になりうると気づきました。 さらに考えると、何かをつくることだけでなく、何かを始めることを主体性の条件にしても、特にやりたいことがない人を排除する構造は残ります。必要なのは、ビルダーに代わる新しい理想的人間像をつくることではなく、何かをつくること、始めること、世界へ作用することを、人間が自分の価値を証明するための義務にしないことではないかと思いました。講義で示された「能力を自分の価値証明にしなくてもよい第3の道」は、ビルダーになれない人の救済ではなく、役割や成果と人間の価値を切り離す問いとして考える必要があると思います。
    (その他)企業のAI推進についても同じ構造があると感じました。「一人ひとりがAIを使って自分の業務を効率化し、自ら課題を見つけ、成功事例を横展開しよう」という言葉は、現場主導の前向きな取り組みに聞こえます。しかし、会社がどの業務をなくし、どの判断をAIへ任せ、浮いた時間をどう使うかを設計しないまま社員へ改善を求めると、組織が担うべき変革の責任を個人へ移すことになります。 組織の縦割りを変えずに個人へ越境を求めることと、業務システムを再設計せずに個人へAI効率化を求めることは似ています。「全員がビルダー」という言葉が、経営や組織による設計の不足を、個人の主体性やAIリテラシーの問題へ置き換える可能性がある。現場がAIを試すことは重
  16. 今回の講義は自分が日々考えているテーマに大きく重なるもので、あらためて日頃の自分の問いをより具体化し深める事ができた。 私自身はWebサービス企業のテクニカルサポート業務で日々Coding Agentや各種SaaSに埋め込まれたAI機能を使い、現時点ではチームの業務をどうAIに委譲していくかを考えるフェーズにいる。顧客から上がってくる問題の技術調査と回答が主たるチームの役割だが、その中でチームのワークフローの中からClaude Codeなどを活用可能な部分を見極め、具体的な実装に落としていく作業を進めている。 日々この作業を勧める中で常に頭の片隅にあるのは「AIはチームの誰かの雇用を脅かさないか」ということである。自分のチームに関して言えば、個々のサポートエンジニアの能力を向上する方向で実装することを目標とし、エンジニア間でのスキルや知識の差を吸収しながら、チーム全体のレベルの底上げをしたいと考えている。例えばログの精査やモニタリングデータの取得・サマリ・過去類事例の調査などはエキスパートの知識を反映させたエージェントに任せられるが、状況の重大度の判断、開発チームとの連携、顧客への説明内容の精査など業務の中に随時挿入される判断は(まだ?)人間が行うべき箇所として残す方針である(が、それらも支援AIのような形で実装できるとも見ている)。 一方でこうした方針が受け入れられるのはただ「いままで人間が対応する前提でチームを拡大してきたから」という経緯に依拠する部分も大きいように思う。どこまでこうした方針が維持できるか=人間を置き換えずにAIの活用を進めるという判断を継続できるか、という点は明確ではないし、おそらく今後は徐々に新規採用を減らすような形で緩やかな縮小に移っていくものと想定している。例えば完全に1からサポート業務を立ち上げる立場なら、同規模の採用はせず多くの部分をAIに委譲する判断をすると思う。 ソフトウェア開発やSaaS企業では進捗度の差異はあれ似たような状況にあると考えていて、現時点でのチーム状態などに応じておそらく短期的にはラディカルにAIを活用し、ソロプレナーやタイニーチームとしてやっていける層と既存組織に近い形を維持しつつAI活用が進む層に分かれていくのではないか。類似の傾向は梶谷さんが指摘されたように他業界にも波及していき、長期的には前者が勢いをつけて後者が緩やかに衰退し、また企業・業界によっては完全に遂行能力部分がAIベースのものに置き換わることも有り得そうである。 自分としてはこのような状況から職能的アイデンティティの危機を感じつつも、なんとか現在の「ひとの能力を拡張するAI」としての方向性を実現できないか、またそれを少なくとも短期的なアイデンティティ・クライシスを防ぐ予防策として共有していけないかと考えている。梶谷さんが引用されていた論文(\*1) でも協働的なAIとの作業はひとの自己効力感を維持することが示唆されており、その可能性はまだ模索する価値があるものと思われる。そしてそれが進む中で現代的な週40時間労働のようなものから解放され、おのおのが自分のために使える時間が増えてほしいというのが切なる願いでもある。 ところで、今回の講義のグループディスカッションの中では自分の見方はどちらかといえば少数派の悲観的な部類であるということも知ることができ、たいへん興味深かった。Anthropicのレポート(\*2)などによればAIへの暴露はまだ業種ごとの格差も大きいと報告されており、異業種の方と交流できるなかで裏付けが取れるのは納得感があった。一方で今後フィジカルAIも含めAIの実行力の拡大が更に続いていくこと、また稼働時間や数の面がどこかで質に転嫁する可能性があることを考えると、1年後・2年後にはより多くのひとがアイデンティティの危機を意識するようになるのではないか。そうした意味で、プログラム終了後も他の参加者の方と交流を継続し、答え合わせができるタイミングがあると面白いかもしれないと思った。 \*1 Relying on AI at work reduces self-efficacy, ownership, and meaning while active collaboration mitigates the effects https://www.nature.com/articles/s41598-026-42312-6 \*2 Labor market impacts of AI: A new measure and early evidence https://www.anthropic.com/research/labor-market-impacts
  17. 人によっては確実にAIの台頭による実存危機を感じている者はいるだろう。私もその1人である。特に私は塾・予備校をはじめとする教育の領域に携わっており、教育や知の日々の変化を目の当たりにしている。AIが教師の代わりとなって立ち現れている状況で、それでもなお教師の役割はあるのだろうか、あるとしたらどのような役割なのだろうかと日々模索しており、今回の講義の中で改めて考察をすることになった。 講義の中で「問われているのは、何をつくり、どう生きるか」とあったが、指導者としての自分がつくることができるものは、AI時代に学ぶ人にエネルギーを与える空間のようなものなのかもしれない。教育現場では、AIの力を借りて質問や指導報告、確認テスト作成ができるような環境がすでに実装されている。しかし、依然として学習の継続の難しさや情報過多による学習者の疲弊が後を絶たない。そうした困難を抱えた学習者に学ぶことの魅力ややる気を与えてあげられるのは同じ人間なのかもしれない。力への意志は、人と人の間に生まれるのではないかとも考える。そのため、自分自身がこのAI時代に学ぶことを愉しむ姿を実現する必要があり、教える側だけではなく学ぶ側でもある姿勢を持ち続けたい。 また、「いかに逸脱をデザインするか」という、重要だが非常に難しい問いとも向き合わなければならない。「逸脱」を「ちょっとずらす」というように捉えて考えた場合、思い当たる節があった。というのは、集客する際に自分の指導コースの文言や見せ方を他の先生とちょっと変えた(ずらした)ことによって、お問い合わせが増え集客に成功したことがある。ベクトルの成分を少しいじるイメージで、今あるものを「ちょっとずらす」発想が、実はとてもクリエイティブで、これも一つの「つくる」行為なのではないかと考えた。構造そのものを転覆させるような劇的なずらしは難しいが、今あるものをちょっとずらすことなら可能である。そのベクトルが指し示す先は、新たな未来という可能性なのかもしれない。
    (その他)「AIはアクセス意識を持っている」という研究結果は衝撃でした。私はAIに対してはまだ全然楽観的で、結局意識なるものは持たないだろうと思っていました。もちろん、クオリアといったレベルとは違うものではありますが、それでもなお何らかの「意識」を持ち始めているというのはきちんと受け止めなければならないことだろうと再確認しました。そうした知見についても新たにアンテナを貼っていこうと思いました。
  18. 講義の要約 講義の中心は、「AI時代に、何をつくり、どう生きるのか」でした。 AIは、単に相談や文章作成をする道具から、調査・制作・契約確認などの仕事を最後まで進める「エージェント」へ変わりつつあります。その結果、これまで専門家が担っていた中間的な作業の価値が相対的に下がり、次の二つがより重要になるという話でした。 入口:何を解くのか、何をつくるのかを決める 出口:成果物を見極め、他者に届け、人を動かす 講師は、自ら問いを立て、AIを使って形にする人を「ビルダー」と表現していました。AI時代の差は、個別の技術を持っているかだけではなく、つくりたいものや主体性を持ち、実際に行動できるかによって生まれる、という主張です。 また、つくる技術そのものが簡単になるほど、「何に情熱を持つか」「何に没頭できるか」が新たなボトルネックになります。ただし、没頭できるものはどこかから正解を探してくるのではなく、興味のあるものを試しながら育てるものだ、という話も印象的でした。 最後には、AIを徹底的に使いこなす少数の人と、仕事から距離を置いて自由に暮らす人の間で、多くの人が居場所を失うのではないか、という問題提起がありました。 小林さんの感想を含めた整理 私が特に考えさせられたのは、「AIを使いこなす人」と「使いこなせずに取り残される人」の間に、多くの人が落ち込むのではないか、という議論だった。 一方で、仕事上の変化と、私生活における幸福やアイデンティティは、ある程度分けて考えるべきだと思う。AIを高度に使いこなせなくても、読書、ゲーム、スポーツ、収集、創作など、自分なりの趣味や人間関係を持っていれば、私生活まで行き場を失うとは限らない。日本には「オタク文化」のように、仕事とは別の領域へ深く没頭する土壌もある。 ただ、他の参加者と話す中で、誰もが強い趣味や好奇心を持っているわけではないことにも気づいた。興味を育てることが苦手で、仕事以外の軸も持てない人は一定数いる。そのような人にとっては、仕事の役割がAIによって薄くなることが、そのまま自己肯定感や居場所の問題につながる可能性がある。 また、「AIを使うと頭を使わなくなる」という意見もあるが、実際には逆の現象も起きていると感じる。AIを主体的に使う人ほど、「もっとこうできないか」「別の組み合わせがあるのではないか」と考え続けている。一方で、指示された仕事をAIに入力し、出力をそのまま提出するだけなら、確かに思考する機会は減っていく。 したがって、差を生むのはAIの使用頻度ではなく、AIを使って問いを広げ、仕事や生活を再設計しようとしているかどうかだと思う。「頭を使う・使わない」というより、AIに判断を預けるのか、AIを材料に自分の思考を発展させるのか、という違いである。 私自身、興味が次々と移り、いろいろなものに手を出しては飽きるという、ADHD的な傾向を感じている。しかしAIによって、その特性は弱点だけではなくなった。短期間の興味でも、AIと対話しながら調べ、試作品をつくり、考えを言語化できる。これまでは中途半端に終わっていた好奇心が、一定の成果や次の学びにつながるようになった。 さらに、自分の知識や考えをAIに向けて話すこと自体が、知識を整理し、説明する力を鍛える訓練になっている。AIは答えを代わりに出す存在というより、好奇心を形にし、自分の思考と言語化を加速させる相手として機能している。この力は今後も意識的に育てていきたい。 日本企業の未来について 日本企業では、AIを使いこなせない人をすぐに大量解雇するよりも、まず社内で抱え続けたり、配置転換したりする動きになる可能性が高い。その間に、意思決定が速く、AIを前提に事業を設計する新興企業が、低コストで周辺業務やソフトウェア領域を押さえていくのではないか。 一方、日本の大手企業には、工場、設備、機器、長年蓄積した現場データなど、簡単には代替できない強みがある。今後は、大手企業が固定資産やハードウェアを保有しながら、ソフトウェア開発や人的リソースを必要とする周辺業務を、AI活用に長けた外部企業へ委託する構造が広がる可能性がある。 つまり、古い企業が一気に消えるというより、強い資産を持つ大企業の周囲を、AIネイティブな新興企業が徐々に取り囲んでいく。大企業にとって本当に難しいのはAIの導入自体ではなく、組織のルールや評価、意思決定の速度を変えられるかどうかだと思う。
  19. 特に印象に残ったのは、「メイカーか、否か」という問いである。これからの社会では、生成AIを活用して自ら何かをつくり出す人と、AIがつくったものを受け取って利用する人との間に、大きな差が生まれる可能性があるという指摘に、強く考えさせられた。 私はこれまで、子どもたちにはテクノロジーを単に使う側ではなく、つくる側になってほしいと考えてきた。その意味では、誰もがメイカーになれる環境が広がることには大きな可能性を感じる。専門的な技術や高価な設備がなくても、生成AIの支援を受けながら、文章やプログラム、デザイン、製品のアイデアなどを形にできるようになるからである。 一方で、すべての生徒が積極的に何かをつくりたいと考えるわけではない。問いを見つけたり、目的を定めたり、自分から行動したりすることが苦手な生徒もいる。「メイカーであること」が新しい社会の標準となれば、今度は、つくらない人や、つくることに価値を見いださない人が低く評価される社会になってしまうのではないかという不安も感じた。
    (その他)「生成AIの進歩に比べれば、私たち人間一人ひとりの能力の差など誤差にすぎない」という言葉も、非常に衝撃的だった。少し乱暴な表現にも聞こえるが、生成AIの急速な進歩を見ていると、確かにその通りなのかもしれないと思う自分もいた。 学校ではこれまで、知識を多く身に付けること、速く正確に問題を解くこと、優れた技能を獲得することなどを通して、個人の能力を高めることが重視されてきた。成績や試験も、多くの場合は人と人との能力差を可視化する仕組みとして機能している。しかし、AIが人間よりも速く、大量の情報を処理し、文章や画像、プログラムまで生み出せるようになったとき、人間同士のわずかな能力差を競い続けることに、どれほどの意味があるのだろうか。 そう考えると、「では、学校は何のためにあるのか」という疑問が膨らんだ。
  20. ・AIが1000倍賢くなった時に、その技術が適正な価格で提供されるのか、疑問に思う。課金できる層が知的労働をAIを使って寡占し、課金できない層が人間の労働力に頼る、といった社会の二階層制が強化される、という未来像はありうるのか。 ・デザイン会社においては、いい小規模デザイン会社ほど紹介で仕事が回っていて、ウェブサイトやオウンドメディアでの情報発信が後手に回っている、という現状があるように思う。こういったところにもAIの影響は及ぶのだろうか。対人での営業の強さはやはりあるな、と最近思っていて、中途半端にオウンドメディアに力を入れているところが一番キツいのではないかというのが気になるところ。そうした中途半端な立ち位置の会社は、人づてでは十分な仕事が獲得できず、とはいえ発信している情報も届かないとしたら、さらなる情報発信か人同士の信頼構築か、どちらを選択すべきなのか。 ・ビルダーかどうか、がポイントとしてあったが、個人的にはディレクターであるかどうか、審美眼があるかどうか、も同時にポイントのようにも思う。AIスロップを生みだし続けるビルダーというのもありえそうな気がする。講義のなかでも入口と出口に価値が移るという話があり、ビルダーといっても職人的にただつくるだけではなく「価値を見つけて届ける」ということもセットで必要なんだな、と思う。 ・逸脱のデザインは、以前から取り組んでいる自主リサーチ活動「ひらくデザインリサーチ」(個々人が主体となったリサーチスルーデザイン活動を行う取り組み。多元的な知のあり方を探り、デザインの前提そのものを問い直すことを目指す活動)の課題感と非常に近いように思えた。改めて活動の重要性を認識するとともに、その重要性をしっかりとうたっていかなければならないことも痛感。 ・最後に、第一回で言及された「ブラックスワン」が頭をよぎる。例えばAgent to Agentでなんらかの価値が生み出せるようになったり、AtoCで個々人の趣味嗜好に最適化されたものが常に生成されるようになったりすれば、質へのこだわりという人間の領域は無価値化するのではないか。質の判断そのものが個別最適化の活動のなかで吸収される。そして、意外なものとの出会いによる知的感動みたいなものは不可逆的に失われるのではないか。 もしそうなったら、我々はGPUを駆動させ、データセンターを維持するための物理的な存在、AIの内臓を綺麗にする存在、細菌叢の一員といった存在価値になるのかも。ディストピアっぽいけど、『PERFECT DAYS』で描かれた幸福ってこういうことでもあるのでは、と思ってしまう。
    (その他)・所用があり途中参加、かつ移動中でブレイクアウトルームでの議論に参加できなかったのが残念
  21. 今回の講義で特に印象に残ったのは、AIが人間の能力差や努力の差を相対的に小さくしていったとき、私たちは何に自分の存在意義を置くのか、という「第3の道」の問いです。 私はこの問題について、必ずしも「人間にしかできないこと」を探し続ける必要はないのではないかと考えました。AIより優れたものを作れることや、人間だけが逸脱できることに存在意義を置くと、AIの能力が拡張するたびに、また別の人間固有性を探さなければならなくなるように思います。 個人的には、MMGDという一つの対象を長く研究している中で、自分の能力を証明したいというより、まだ分からない構造があるから観察を続けたい、という感覚があります。少し、雪を長く観察していることに近いです。仮にAIが自分よりはるかに速くその構造を解析できるようになったとしても、自分がその対象に興味を持ち続けることまで失われるとは限りません。 そう考えると、「第3の道」は、人間だけに残された能力を見つけることではなく、能力や希少性とは別のところで、対象との関係を持ち続けられることなのかもしれないと思いました。
    (その他)「入力と出力の間を問い続ける」という最後の言葉も印象に残りました。 AIによって中間の作業が大きく代替されるとしても、その過程を単純に省略すればよいわけではなく、どの部分をAIに任せ、どの部分に自分が留まることで、問いや見方そのものが変化するのかを考える必要があるように感じます。 過程には、単に時間がかかるだけの摩擦と、自分の認識や問いを変える摩擦の両方があるのではないかと思います。AI時代に重要なのは、非効率をそのまま残すことではなく、自分にとってどの過程が対象との関係を変えるのかを見極めることなのかもしれません。 今回の講義を通して、「何を作るか」だけでなく、「なぜその対象に関わり続けるのか」「どの過程を自分で引き受けるのか」という問いが、これからますます重要になるように感じました。
  22. 1.講義の自分なりの理解 今回の講義は、AIの最新動向を踏まえたうえで、私たち人間の存在意義を問い直す回だったと捉えている。  AIエージェントの登場により、人間に代わって作業を最後まで完遂できる時代となり、「つくる」という実装の大部分をAIに任せられるようになった。  そのような時代においては、1つの専門さえあればAIと対話しながら他領域も実装できるため、職種の壁が消えていく。デザイナー・エンジニア・マーケターの垣根も、文系/理系の区別と同様に意味を失いつつある。これからの決定的な区分は職種ではなく、「自らの手でプロダクトやサービスを形にする『ビルダー』かどうか」だ。つまり、価値の源泉がハードスキルから、どんな問いを解きたいかという動機と行動力へとシフトする。具体的には、仕事を「入口(問い・コンセプト)/中間(作業)/出口(目利き・人を動かす)」に分けた場合、人間が価値を生み出すべきフェーズは中間から入口と出口へと移った、ということだ。AIにコンテキストを渡し、出てきたものを右から左へ流すだけの存在になってはいけない。ビルダーとして主体性を持ち、世界に作用し続けるべきだ。  では、ビルダーはどう「在る」べきか。自分が没頭できるテーマを小さく始めて育て、存在意義の置き場を「証明できる能力」からその「育ててきた愛着」へと移していく。また、自分の強みも容易に無効化される時代だからこそ、「自分」という個を多角化しておくことも重要になる。そして、AIの利用が集団の同質化を招く中で、AIが選び取る一点からいかに逸脱できるか、その創造力こそが自身の存在意義を担うことになる。  しかしAIの性能が1000倍になったとき、その創造力をもって能動的に行動し続けられる人はごくわずかしかいない。ではAI時代において、生きる上でのアイデンティティをどこに持てばよいのか。言い換えれば、「能力を、自分の価値証明にしなくていい。生きがいも、一旦なくていい。それでも、豊かに暮らせる。そんな『第3の道』は、何だろうか?」 2.実存の問い「AIが人間の能力を超えていくとき、私たちは何に自分の存在意義を置くのか」に答えてみる  能力も生きがいも一旦脇に置いて、自分の存在意義がどこにあるのか考えたとき、まず思い当たったのは「健康」だった。私たちは、朝起きて、ご飯を食べて、といったことを当たり前にこなしているが、それらは決して当たり前ではなく、身体が健康であるからこそ成り立っている。AIは睡眠データを計測してアドバイスをくれたり、健康的な献立を考えてくれたりはするが、その出力をもとに実際に健康になるのはAIではなく人間自身である。この「代行できなさ」は、講義の最後に梶谷氏自身が語った問いのアップデートとも重なる。実存の危機に直面するのは能力主義に存在意義を預けてきたホワイトカラーであり、農業のように身体的な営みに存在意義を感じている人には、むしろ価値が高まる「ビルド」があるという指摘だ。健康もまた、能力の証明とは無関係に、自分の身体を通じて世界と関わり続けるという意味で、この「身体的な営み」の一種だと思う。  ただ、健康はあくまで土台であって、それ自体を存在意義と言い切るには少し弱いとも感じる。健康という土台の上で、人とつながり、良い関係性を築くことにこそ意義を見出すべきではないか。国際政治を見ていても、世界情勢は結局、国と国との関係性によって決まっていくと感じる。それと同じように、個人のレベルでも、誰かとつながり、切磋琢磨したり協力したりしながら良い関係性を築くことで、自分たちの人生は満たされていくし、その積み重ねが社会全体を良くしていくのではないか。これからAIがどれだけ進化して人間の能力を超えていっても、健康な身体を土台に、人と関係を築き続けること——それこそが、私たちがこの世界で生き続けていい理由なのだと思う。
    (その他)とてもいい内容だったと思います。
  23. 最先端の研究者などの人たちと見ている方向性が近かったので安心した
    (その他)ブレイクアウトルームの時間が長かったのが、とてもよかった。
  24. 今回の講義は、私が現在まさに直面している問いと強く共鳴する内容だった。とりわけ関心を引かれたのは、AIによる権力の再配置がどのような機序で生じるのかという論点である。 性能向上とコスト低下を直結させる議論自体は、ムーアの法則の段階から既に存在していた。ムーアの法則そのものは半導体の集積密度の技術的向上を示すものにすぎなかったが、それが50年以上にわたり実態との乖離を伴いながらも製造コストの縮減と等値される言説として、経済界・産業界に強い影響を与え続けてきた。 講義中で「方針を考える、人と会う、喋ることを除く全てでClaude Codeを使っている」という発言があった。しかし実際の影響範囲はそれだけに留まらないと考える。ポスト現象学が記述するように、道具は方針を考える過程や他者と対話する過程においても、知覚の不可避な増幅と縮減をもたらす媒介者として機能する。フェルベークの理論では、技術は人間と世界の関係を中立的に伝達するのではなく、その関係そのものを能動的に形づくる媒介として捉えられる。実際には他者が介在しないことによって、「全てにおいてClaude Codeを使っている」と捉えてもよい状況がすでに現れていると考えられる。 一方で、「強力な力が全員に配られた」あるいは「配られるだろう」という前提も、一定の疑いを持って検討する必要がある。現時点でAIは、個人が最大のパフォーマンスを継続的に利用するには十分すぎるほど高価なツールである。今後の価格下落についても、単価の低下や性能向上が必ずしも万人に強力なツールをもたらすとは考えにくい。エージェント化に伴うトークン消費の予測不能性、現在のAI開発企業の補助金依存型の事業モデルなどを踏まえると、精度の一定の向上を見込みつつも、価格自体が破壊的に変化しない可能性は高いと考えられる。 この背景を踏まえると、今後の実存的危機はより複雑な形をとると考えられる。企業に所属する個人が所有するエージェントは、企業が契約する高価格なエージェントを超えることはなく、むしろAIをより低コストで運用するために人間が運用される構図が生まれる。すでに十分な資本力を持つ個人を除けば、本業を代替できるほどの性能を持つツールを個人が所有することはできない可能性も見込むべきだろう。講義の終盤で述べられた通り、これらの力学は結局、既存のパラダイムへ回収されようとする力を強める方向に作用する。この首輪は、個人であれ企業であれ、自己実現を効率的・資本主義的な価値として発揮しようとするほど強く働くと考えられる。 また、AIによる実存的危機は、単純作業の代替よりもむしろ複雑な形で露呈している。私に身近な事例で言えば、フォトグラファーという職業自体をAIが直接置換しているわけではない。フィジカルAIが実際にカメラを構える段階にはまだ達していないためである。しかし企業は、各種媒体に掲載する画像を生成画像へと置き換えている。それにより需要そのものが大幅に縮小し、生成AIによる実質的な雇用削減が生じている。事実を伝える写真よりも、パラメータ規模の大きいモデルによるプロトタイピングでSEO上の有意差を見出せる生成画像の方が、企業にとっては「最適化」とされる。消費者・ユーザーにとっては価値がほとんど変わらず、見方によっては無価値化したとしても、その判断は覆らない。 つまりAIによって雇用、ひいては実存に影響を受けるのは、受注から納品までフィジカルな作業を伴わずに完結するホワイトカラー職に限られない。資本家にとっての価値が最大化される一方で、弱い立場にある労働者の価値はコスト上の理由で「削減」される。農家すら、工場生産による食糧に代替されうる。私企業が主導する都市では、「最適化」のために農地が発電所へ転用され、農家が公助を打ち切られて事業存続が困難になる可能性も想像できる。想像されるような直接的な代替でなくとも、資本主義的構造から弾き出されることによって実存的危機は発生しうる。 このような状況に対応する、現状での私の仮説は、実存のあり方を企業中心からコミュニティ中心へ移行させることにある。企業における能力主義が中心とされる一方で、日本の都市では自治機能の低下、いわば地方の集権化の進行が指摘されている。村内・町内の関係性を円滑に進めること、ローカルな社会課題にローカルな解決法で対処すること、自らの町の政治的方針を自ら決定すること、あるいは自らの住む地域への企業の進出に賛同・反対することは、民主主義的プロセスを要するがゆえに、AIによる意思決定は補助的な役割に留まると考えている。しかし、集権的に運用される自治体は、容易に私企業にその実態を乗っ取られうる。軸足をスモールスケールな「町」の運営に置きつつ、企業においては効率化と環境負荷の折衷のために部分的な意思決定を担う姿勢が有効なのではないだろうか。 メリトクラシーへの依存と資本主義社会の問題は、AIの登場以前から既に指摘されてきたものである。その見地から考えれば、AIが浸透したとしてもメリトクラシー自体が崩壊するのかという点には疑問が残る。ありとあらゆる場所に資本が浸透し、階級制が補強され、「平らな競技場」という欺瞞が指摘されてなお、人はなお資本主義的活動にその実存を見出す以上、メリトクラシーに依存し続ける。新自由主義はそもそも人間活動を経済の言葉に、主体を人的資本に、交換を競争に置き換えることに端を発しており、それが虚偽であったとしても統治理性としての機能を失うことはない。ここにアプローチせずに個人のパフォーマンス向上や起業による市場の細分化を進めても、実存の危機は形を変えて残り続けると私は考える。 こうした状況では、企業そのものの転回が求められるのではないだろうか。ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズは『Inventing the Future』において、完全自動化の推進、労働時間の短縮、無条件かつ十分なベーシックインカムの提供、労働倫理の解体という四つの要求を掲げ、資本を強制的に労働節約的技術へ投資させる好循環を構想している。この構想では、企業は雇用の量的確保を目的とする組織から、自動化によって生まれた余剰時間と資源を再分配する装置へと役割を転換することが想定される。脱成長論の立場からも同様の方向性が示されており、コーポレート・ガバナンスの変革によって企業経営者の受託者責任を、短期的な株主利益の最大化から社会的・生態学的影響への配慮へとシフトさせることが提言されている。また、有害産業・贅沢産業の縮小や必需的な公共サービスへの普遍的アクセス確保といった政策と組み合わされることで、企業活動の目的そのものが生産性最大化から社会的再分配の媒介へと再定義されうる。ただし、こうした構想については、UBIの財源設計や労働参加率への影響について実証研究の結果が分かれており、フィンランドの実験のように雇用への影響が限定的だった事例もある一方、財源の持続可能性や増税負担の見積もりに関する懐疑的な検証も存在する点は留保が必要である。 以上を踏まえれば、私自身は長期的には実存の危機への対処として、テクノロジーに直接的にアプローチをかけるというよりも新自由主義への抵抗が有効だと考えている。人間活動の言葉を取り戻し、自治に注力し、そのための要請として企業の転回を求める。結果として、企業活動や個人の資本主義的生産性は生活を保障するものであっても豊かさを保証するものではなくなり、豊かさは交換や主体的活動によって得られるものへと変わる。それこそが、実存の危機への一つの応答になるのではないかと考えている。
    (その他)上記にまとめたため省略させていただきます。
本ページの感想は、受講生アンケートの回答を匿名で掲載したものです。文意を変える編集は行っていません。