MAKERS UNLEARN 2026 — VOICES

第1回「テクノロジーの未来学概論──FUTURES LITERACY〜未来を想像/創造するリテラシー」
受講生の感想

テクノロジーの未来学|2026年7月6日(月)|講師:松島倫明

31件の感想
匿名掲載(原文のまま)

SUMMARY感想まとめ

「私たちが思い描く未来は、誰かがつくった未来ではないか」という問いかけが、多くの受講生に強く残った回でした。脱未来化/再未来化という枠組み、「鉄の馬」やSFプロトタイピングの話題を手がかりに、自分の仕事や暮らしの現場から「どの未来に参加するのか」を考え始めた感想が多く寄せられています。

VOICES受講生の感想(全文)

講義後アンケートに寄せられた感想を、氏名を伏せたうえで原文のまま掲載しています。

  1. 多くの話題にされていたことのほとんどが、一つも読んでもいないのに、自分の感覚とフィットしているので、自分の方向性が悪くないことがわかり、とても自信になりました。
    (その他)若い人がどんなことを考え、何を感じているか知りたいと思いました。
  2. 本日の講義では、様々な話題をお話いただき、ジェットコースターに乗っているような講義でとても楽しかったです。特に印象が残ったのは希少→潤沢、実験科学→計算科学のところです。経済学の四半世紀前に学んだ身としては、希少と潤沢が時代というか、とくにAIの導入によって大きく変化していくというのを痛感しています。また、個人的には今後は計算力社会になると思っておりまして、計算力=個人、企業、国の力になると考えておりまして、自分の感じていることと近しいお話をいただいて、改めて考えさせられました。
    (その他)Zoomのチャットに投稿された参加された皆さんのコメントも示唆深く非常に勉強になりました。
  3. すごくスケールの大きな話で、自分の日々の生活とは結構かけ離れているなと思いました。ただ、これからデジタルが発展しシンギュラリティが起きたりするとしても、過去に培われてきた豊かさや、人間の変わらない感情というのはあると思っていて、そういうことも考えていきたいと思いました。(例えば戦時中、出征することを祝うムードがあったと思いますが、その渦中で本当は人々はどんな気持ちだったか。自分の夫や息子が死んで戻ってこない可能性が高い中で、どんな気持ちで送り出していたか。社会的にどんなムードであれ、切ない気持ちは今も昔も変わらないのでは、とか。そういうことを日々考えています)
  4. 楽観的な未来探索は確かに受け入れやすい。悲観的より建設的でもある。とはいえ、楽観でも悲観でも無く、普通に科学的で再現性のあるアプローチをすべきではないかと感じる。恣意的であることも意義が高いのだけど。
    (その他)先にテキストを配布して予習前提にすれば進行は早いと思った。
  5. 盛りだくさんでしたが、「鉄の馬」のくだりが一番興味深かったです。鉄の馬や火やtwitterなど、まだその概念自体が存在しない時に遭遇しても「そんなのが当たり前になるわけないじゃん!」と思うような「未来のスタンダード」を、2026年現在で想像するのって難しいと感じました。そのためにSFプロトタイピングが有効というお話もありましたが、そのアイデア自体もどうしても2026年現在の価値観・倫理観がベースになってしまうのではと思います。そこはどう乗り越えていけるんだろう?と思いながら伺っていました。 また、例えばですが「体外受精が当たり前になって人間みんな培養容器で作られるようになる」とか「自分の肉を培養して食べるようになる」みたいな未来を想像した場合、「さすがに倫理的に無理か」と感じますが、その倫理感はどこから来たのか?それも西洋的な価値観に侵食されてるってことなのだろうか?などを考えながら聞いていました。
  6. 未来を考える理由は様々ですが、それが他者と共有し実装しようとする未来である限り、その根拠は求められると思います。根拠は、別に分析事実的でもSF空想的でもどちらでもいいと思いますが、「なぜ私たちはその未来を選ぶのか?」、「なぜその未来を描くのか?」に答えられることが、とても大事だと学びがありました。
    (その他)少し、内容ボリュームに対して時間が足りなかったですが、とても充実していました。 コメント欄の自由度が高く、質問以外の参考情報もたくさん流れてきたのが良かったです。
  7. パラダイムの底流を捉えるという視点は、私の中で小学生から中学生に経験した認識です。まさにSF映画などを見る中で、今自分の存在の不安定性、いまここにいる自分は何者か、パラレルワールドで生きる自分がいるのではないか、と怖さを感じた記憶があります。 誰しもが経験しているかは疑問ですが、教育を受け社会に触れる中で忘れ去られた視点だと感じました。 考察でなくてすみません。
    (その他)難しすぎる!しかし、未来(修了後)に振り返った時に、少し理解ができるような気もしています。
  8. 哲学用語の『「歴史の終わり」という錯覚』という言葉が印象に残りました。 もしかすると今は、歴史の終わりではなく、別の歴史が始まる船出なのかもしれないと思いました。 未来は、すでに誰かによってつくられているものに併合されていくものなのか。 それとも、地域や現場や生活の中から、巻き込みながら確認していけるものなのか。 農の現場にいる立場からすると、未来は遠くの予測ではなく、日々の手触りの中で少しずつつくられていくものでもあると感じます。 その意味で、未来について考えることは、自分たちがどの未来に参加しているのかを問い直すことなのだと思いました。
  9. フューチャーズ・コーンをイメージしながら拝聴しました.冒頭の“15年後の社会”をよくなると信じる国やニーチェの話から、私のリハビリテーションの仕事と結びつけて聴いていました.リハビリテーションは、未来の暮らしや状態がよりよくなることを信じて、バックキャストで現在何をすべきかを考え、ポジティブに推進します.その結果、予想以上により良い成果や想像を超えたパフォーマンスを発揮するケースがあり、未来を固定化せずに描くことが大切であると再考しました. 私も、ライフラインが日本のように隅々まで行き渡っていない国へ行き、そこで、豊かさや人間らしさ(動物らしさ?)とは何かを再考する機会がありました.ヒトが発明し物質的に便利になり充足していることが、結果的に自分たちを苦しめていたり健康を害していたり、取り巻く環境を悪化させていることに、なかなか気づきません.フィールド講義のように、当たり前に手に入り使っているものから距離を置く機会も必要と考えました.
    (その他)松島さん出版記念特別講義、切望します!
  10. テクノロジーの未来学における14のキーワードの選定が興味深かった。ダン&レイビーのDesign A/B/C/D...にも通じるところだが、複雑に絡み合う多元的な未来を峻別することは困難で、自身の中の尺度をつくったり更新していく態度が自分にも必要だなと痛感した(人の尺度を借用するだけでなく)。今後の受講を通じて検討したいと、初回としてとても刺激的で勇気をもらいました。
    (その他)情報量が多いときこそブレイクアウトルームで吐き出したい笑
  11. 未来について考える意義について、どちらかというと私は、過去にぐっと遡ることによって現在の在り方を相対化し、「これをどう変えるか?」という視点から、未来をつくっていくことしか考えたことがありませんでした。 「迎えるもの」として向こうからやってくる未来よりも、「つくっていくもの/変形させていくもの」として、現在の形を変えたものとして結果的に生まれる未来しかあまり考えたことがなかった。 しかし、「考えたことがない」からといって何らかの未来像に基づいていないわけではない。 きっと無意識に、今の現状や過去から現在に至るまでの変化が、そのまま線形に拡大したり、そのままの方向に進歩したりしていくんだろうという無意識の前提のようなものがある気がしています。 だから私にとっての「脱未来化」とは、すでにこれまで意識的に考えてきた未来像から脱するというよりは、まず無意識のうちに基づいていた未来像を意識化するところから始まるのだと思います。それはすなわち、「なぜ現在がこのようではなくてはならないのか」という必然性と偶然性について考えることでもあるなと感じています。 そしてまた、脱未来化するにあたって、単に歴史を遡るだけでは、結局また同じように線形的な進歩観に陥ってしまう可能性がある。そこで必要なのは相対化する手段の多様性にあるのではないか。人類史を遡る、他の人の視点になる、などがこれまでよく言われてきたが、そこに現象学的な視点を持ち込むのも有効なのではないかと思っている。 現象学的視点とは簡単に言ってしまえば「なんの前提も置かずにありのままを見つめる視点」と言えるだろうが、決して簡単なことではない(実質不可能に近い)。だが、瞑想のように(というか実際に瞑想を通じて)訓練可能なものであるし、その視点からは、我々の今持っている現在やそこから伸展した未来の像というのは「宇宙人が地球人を新鮮に見るように」映るだろう。瞑想が執着から脱するのに、観察をすること、その非自明性に新鮮に驚くことを必要とするように、我々が既存の未来像から脱するのにも、それにまずは驚くことが必要なのだろう。 おそらくこれからの講義や実践を通じて、マッサージ師に頭のツボを押されて「こんなところにツボがあったんですね」と驚く自分の身体について無知な現代人のようなことがたくさん起きるだろう。そこで固まらずに素直に驚けるよう頭と体をほぐしておきたい。
    (その他)大学の講義のように、初回で様子見をして他の科目に変える、といったことが可能なのでしょうか。
  12. 冒頭に提示された「未来はより良くなるか?」という国別アンケート結果(2017年データ)を見て、日本は「良くなる」と答えた割合が最低水準であることに加え、「変わらない」という回答が非常に多い点が気になりました。 私自身を含め、日本には「ずっと停滞している」と感じている人が多いことの表れでしょう。GDP成長率の低迷や少子高齢化といったニュースばかりでは、そもそも未来に対する明るい展望を持ちにくいのが現実です。「今の生活はまだ保たれているから、これ以上悪くならないでほしい」という現状維持への切実な願いが、「変わらない(停滞)」という回答に集約されているのだと思います。 しかし、2026年現在を生きる私が個人的に実感しているのは、AIの劇的な進化により「世界が根底から変わろうとしている」という確信です。もし今同じアンケートを実施すれば、「変わらない」という停滞層が減り、「良くなる」あるいは「悪くなる」と答える層へと二極化するのではないでしょうか。その上で私は、未来は「良くなる」ものであってほしいと強く願っています。 今回の講義を通じて深く腑に落ちたのは、「良くなる未来を自ら描き、その明るい方向へ意識を向けること」の重要性でした。その前向きな展望こそが、私たちが主体的に行動するためのインセンティブ(原動力)になるからです。 だからこそ、改めて自分自身にこう問いかけたいと思います。 「私が見たい未来とは何だろうか?」 「私が心からワクワクできる、望むべき世界線とはどのようなものか?」 そしてさらには、 「できるだけ多くの人が、それぞれの未来に希望を描ける社会を築くためには、一体何が必要なのだろうか」と。
  13. 盛りだくさん過ぎてまだ整理がついていませんが、まさに「リテラシー」というこの講義の幕開けに相応しいものだという、掴みそこねた実感の欠片を感じています。 膨大なスライドと淀みのないトークから、語られきれなかったであろう様々な思索の往復を垣間見ることができ、極めてフラットな地平で未来を眺める、そのような見地にたどり着くためのマップを手にした気持ちです。
    (その他)Radical Abandanceの部分でも触れられていたことを、ちょうどこの数日間で考えていました。講師の方々が膨大な裏付けのもとに鮮やかに知見を示してくれるという姿そのものから、私自身は「畏敬の念」を感じます。しかしそれはまさにAIが得意なものであるはずで、実現されたときにはAIを崇拝する人々が出るであろうし、一時的にせよそうなる方が自然なはずだ、と思いました。叡智をもった存在に畏敬の念を抱くようにして人類は過ごしてきたのでしょうから。 で、その次のフェーズで価値観が翻り、「機械にもできることは尊敬に値しない」ように感じられるようになる時期が来るとしたら、長老的な存在に畏敬の念を抱かなくなるのか!それってどんな人間像、社会像になるんだ!?そんな感性、人類にとって初めてな境地じゃん!と思い至っていたのです。 しかしそれが「知性が希少でなくなったときに(人は)何に希少さを感じられるようになるのか」なんてことばで紹介されていて、あっさりと自分にとって大きめの発見に思えていたものが吹き飛ばされる爽快感(無情感)を味わいました。笑 長谷川愛さんのどうやって自分が想像もできない考え方を見つけられるようになるのか、なんて発話に対しても、鮮やかにニュアンスを察して「未来から現在を眺め直すなど、あらゆる手法を駆使すれば見つけられる可能性が増すのではないかと思ってる」などと切り替えされた辺りでも、いちいち感動してました。 ということでチャットで盛り上がっていた内容はとてもトレースしきれませんでした。あれも後で読むつもりでいたのですが、、、チャットのリアルタイム性は再現できないでしょうから講義アーカイブでは残さない(公開しない)方が適切なのでしょうね。。。ちょっと心残りではありましたが。ついていけなかった悔しさも、次に講義への意欲として活かします。
  14. 1人の、日本の地方と呼ばれる山梨で生まれた女性として、未来を見つめて、あらためて解像度の高い希望と期待を持ちたいと思った会でした。 これまではいわゆる”SF”として、新たなテクノロジーを見ていました。AIも、AGIも、自動運転も、思い返せば同じようなペルソナが語ってくれていた気がします。 私自身は、3年前からAI倫理に興味をもち、思い返すとそこからはじめの一歩を踏んでいたようです。まだ一般的になりはじめた対話型AIを使う上で、私たちは彼らを育てる立場にもあるのだ。と責任を感じつつも、まだまだ、「来る!AGIの恐怖!」だったり、EUが提唱するAI規制の強さだったり、AIは人間以下の存在なんだよ。だから倫理というものをしっかり理解させないとやばいぞ!といったような風潮が強くて、ギョッとした記憶が懐かしいです。 どうしたら、人も動物もAIも、自然も、平等になれるのか。をテーマにちまちま考えていました。ただ学び合える場がなく、未来哲学に傾倒してました。 松島さんが提案してくれたテーマはどれも咀嚼が必要ですが、いわゆるブラックスワン的なものを見過ごさないときに、私は一人一人が弱いと思う部分、人にあまり言いたくない隠したい部分だったり、愛してやまないものこそ、もっとも人間らしくて、自身の捉え方次第では、誰かの経験則になりうる、見方を変えた十人十色、未来を自分らしく生き抜く力になる、スコープの角度になるのかな、と考えました。 いわゆる単数形の未来では、合理的な、技術にまつわる正解は同じようなペルソナの方々によってすぐに、必然的に、共通言語になるかと思います。 (本人が思う)失敗談からの立ち上がり方とか、色んな経験とか、愛してやまないものへの理屈を超えた話とか、生きた言葉はきっとオルタナティブに今のところなれないよなぁ、と感じました。代替できるとしたら、運命もきっと作れそうですね 開講記念イベントでも、松島さんが仰っていた、”良かれと思って残す技術”を後世につなぐことは、生きた言葉として刺さっています。これからのmU2026を受講する中でも、私自身の軸として一旦は持っておこうと決断しました。 (だいぶ感想ベースですね、すみません!)
    (その他)講義で使用されていたスライドや、zoomのチャットログを可能でしたら展開いただきたいです! 特に後者が手違いで退出したら見れなくなってしまい、心残りです😭
  15. 「未来が過去を書き換える」について、22世紀の歴史の教科書には「プレ・パンデミックの時代には、インターネットはほとんど使われていなかった」と書かれるのではないかという仮定に、不思議と納得させられた。  文字で見るだけでは「未来が過去を書き換える」という言葉からは拾えなかった意味であるが、現在の時代が未来から振り返られたとき、それは正しく認識されず、誇張されて解釈されることも十分にありうるし、認識を共有しやすくするために意図的にそのように広められるかもしれない。  現在の私たちが、過去の歴史を考証しながら組み立てていることを考えれば、それは当然のことであるが、それが自分たち世代にも例外なく及んでいくであろうという意識が欠如していた。  当たり前に起こりうること、しかしながら日常では認識できていないことが、きっとこのほかにもたくさんあるのだろう。このような気づきを「makers Unlearn 2026」の第1回目の講義で持つことができたことで、今後の講義全体に通底する思考のベースに据えることができたことは意義深いと考える。
    (その他)Amazon Kindleが、ジェフ・ベゾスによる、SF雑誌から受けたアイデアの具現化であったことを知らなかったので、新鮮な驚きを覚えた。すでに、SFが現実世界で具現化される夢のような未来に来ているのだという不思議な実感を持った。
  16. 規模の小さい話となりますが、今まさに、「未来は現在に影響を与える」悲観している人たちに対して何等かの手を打たないと、この先も変わらず、悲観されたままだな。(声の大きな悲観者の影響力が残念ながら大きい。)どうすれば、悲観的な受け止めを変化させられるだろうか。と思い悩んでいたので、「未来は現在に影響を与える」が、ぐさりと刺さりました。今後の講義を重ねると、何か方向性が見えてくるのか。向き合い方が見えてくるのか。ピンポイントですみません。 22世紀を想像できない。なども含めて共感するものが多かったですが、再未来化の7つの軸は、理解が追い付かずでした。アーカイブを見返し、今後の講義を受けていくと、自分の中でつながりが表れてくるのかなと、楽しみです。
  17. 先人たちが築き上げてくれた過去やその延長線上に我々の現在がある。だから現在を生きる我々が、その延長線上にある未来への基盤を築くのだと短絡的に理解をしていたが、技術進歩や周辺環境がわからない未来についてこれまでの過去や現在の状態を継承した単視眼的な考えだけでは、未開の未来に到達できないということがうっすら気づきました。かといって無気力になるのではなく、だれのためのなんの未来かということを問い続けていきたいとも感じました。
    (その他)インプット量が多いので一回の講義で分かった気にならず、繰り返し視聴し吸収することと今後の皆さんとの対話が重要だと感じております。
  18. 本日の講義で提示された「FutureではなくFuturesとして未来を捉える」という考え方は、社会だけでなく個人にも当てはまると感じました。むしろ個人の方が、知らないうちに単一の未来へ向かいやすいのではないかと思いました。 特にAI時代には、自分の会話ログ、行動ログ、思想ログをAIに学習させることで、AIが自分に最適化されていくことが「賢くなること」「最先端であること」として肯定されがちです。しかしその一方で、AIは過去の自分のログから「自分らしい自己像」「自分らしい未来像」「自分にとって自然に見える最適解」を作っていく。その結果、未来が開かれるのではなく、過去の自分に閉じ込められていく可能性があるのではないかと考えました。 つまり、AIに日々のログを学習させる行為は、ある種「自分の未来の固定化」でもあるのではないか、という問いが浮かびました。ここで必要なのは、AIが作った自己像・未来像・最適解に対して、人間が異物と反証を持ち込む回路だと思います。 その異物とは、嘘の情報やただの逆張りではなく、自分の自己像に都合が悪い情報、つまり目を背けたくなる事実です。たとえば、自分が重要だと言っているのに実際には動いていないこと、自分では戦略的に考えているつもりでも実際には緊急対応に流されていること、自分の選択が本当に未来を開いているのか、過去の成功パターンをなぞっているだけなのか、といった事実です。 個人におけるFuturesとは、自分に都合のいい記憶だけで未来を組ませないことなのではないかと思いました。AIメモリは「私らしさ」の保存庫であるだけでは不十分で、「私らしさ」と「私らしさへの反論」が同居する場所である必要があるのではないか、と考えました。 これを社会に置き換えると、社会における単数形の未来とは、既存の制度・市場・技術・データから導かれる「もっとも社会らしい未来」だと思います。経済成長すればよい、生産性が上がればよい、AI導入が進めばよい、便利になればよい、データで測れるものが重要である、という未来像です。これらは部分的には正しいけれど、それだけが未来になると危うい。 社会におけるFuturesとは、単に多様な未来を綺麗に並べることではなく、支配的な未来像が成立するために黙殺している現実を、意思決定の場に戻すことなのではないかと思いました。AIで効率化される側ではなく、評価され、監視され、代替される側の経験。生産性指標では見えないケア、教育、身体、孤独、信頼の損耗。データに残らない人、制度の外にいる人、声を上げにくい人。そうした「進歩の物語に入りにくい現実」を排除しないことが、社会におけるFuturesにつながるのではないかと考えました。
    (その他)「未来を複数形にする」とは、単に選択肢を増やすことではなく、単一の未来を見てきたがゆえに見なかったことにされてきた不都合に目を向け直すことなのではないかと思いました。経済成長、生産性向上、技術進歩、AI活用といった未来像は、それぞれ部分的には正しいものの、その未来を前提にすることで、そこに入らない人や場所、損失、矛盾が見えなくなってきたのではないかと思います。 そうした見えなくされてきた現実に目を当てると、未来はもはや一つの線では語れなくなる。単一の未来に対して多様な選択肢を後から足すというより、単一の未来そのものが、いくつもの現実を切り落とすことで成立していたのだと気づくことが、Futuresという考え方につながるのではないかと感じました。 AI時代には、未来予測や最適化がますます強くなっていくと思います。しかし、AIが予測しやすい未来、最適化しやすい未来だけを追うと、未来はむしろ狭くなるのではないか。個人においても、自分のログをAIに学習させることで「自分らしい未来」が強化される一方で、自分に都合の悪い事実や、過去の自分では選ばなかった可能性が見えにくくなる危うさがあると感じました。 とはいえ、私自身もclaude codeやcodexを使って会話ログやPC利用ログを毎日溜めて自動で日報ログが貯まるようにしています。なので、個人のデータを可視化して残して溜めていくという行為そのものは否定していません。 ただし、個人の単一の未来への過度な適応の危険性という意味で、個人には自分に都合の悪い事実を残すcounter-memoryのようなものが必要であり、社会には、支配的な未来像に対するcounter-futureを持つ公共性が必要なのではないかと思いました。講義で語られた脱未来化・再未来化の話を、自分自身のAI活用や記憶の設計に引きつけて考えられたのが大きな収穫でした。早速わたしのMacBookにcounter-memoryを自動作成する仕組みを組み込みました。しばらく運用してみてどんなログが残るか楽しみです。
  19. 「再未来化(Re-Futuring)」における「稀少さ(Scarcity)/潤沢さ(Abundance)」において、いわゆる知能もまたAIの発達により稀少さを喪失している点をみた。この“知能“というタームを基点に考察を加えたい。  知能という言葉が「知識」を指すのであれば、確かに間違いなくその稀少さは失われ、AIに代替される代表になっているであろう。しかし、今まさに私たちがしているように「問を問い直す」という営みは、テクノロジーが発展する世界で必要不可欠な〈知能〉であるだろう。こうした知的営みは確かに昔からあるものではあるが、AI時代に最も重要な形となって現れてくるのではないだろうか。テクノロジーの発展に駆り立てられた現れ(ベシュタント)である「知能」が現在私たちの多くが指し示す知能のことであるが、この「知能」はあくまでも知能における一側面の現れに過ぎない。テクノロジーの発展に駆り立てられた現れである「知能」の特徴は、「①知識を多く保有すること」「②有用か有用でないかの2分法で世界を切り分けること」にあると私は考えている。この「知能」を持って想像し創造してきたのがこれまでの社会だったのではないだろうか。あの「進歩史観」といい「大きな物語」といったそれらは、そうした「知能」に支えられていたのである。これによって“単数形の未来(Future)“が人々に共有しやすかったのではあるまいか。また、“「歴史の終わり」という錯覚”もまた、やはり“錯覚”なのであり、それは「知能」による錯覚だということもできるかもしれない。「私たちは人類史上、知識の面で最も優れた到達点に登り詰めた。役に立たないものはとことん切り捨て、役に立つ有用なものを徴用し尽くし、技術をこんなにも発展させてきたのだ」と言わんばかりに。  しかし、現代はまさに知識保有的、有用性の2分法的なこの「知能」が異なる側面の〈知能〉に取って代わられる、その現れを看取した者が次のステップに進める時代のように思える。AIの進展はもちろん、多元的で複雑性を有する現代を前に、これまで駆り立てられて現れていた「知能」が通用しなくなってきている。まさにギブスンによる「なぜ22世紀を想像できないのか?」もここにあるのではないか。知識を多く保有し、有用か有用でないかの2分法で世界を切り分けようとする「知能」では、現代ひいては未来の多元性や複雑性には立ち向かえないのである。まさに今、「問を問い直す」という〈知能〉の現れを看取する頃なのだろう。このポイエーシス(かどうかは定かではないが)としての〈知能〉が求められているような気がしてならない。“複数形の未来(Futures)”は「問を問い直す」という〈知能〉の側に立つことで初めて深掘りできる命題なのかもしれない。従来の「知能」はあまりにも素朴に単線的に「有用な正解」へと突き進むものであった。しかし、“複数形の未来”は素朴な単線的成長では捉えられない。次の未来は斜め先にあるかもしれないし、下にあるかもしれないし、ともすると後ろにあるかもしれない。  教育などによって〈知能〉を具体的にどう実装させていくのか、また〈知能〉が他にどのような効果をもたらすのかは私の中で掘り下げていかなければならない問題である。だが、現代は知能の柔軟な変容を必要とする段階にすでにきているように私には思えてならない。人は未来を必要とする。その未来が立ち現れるのはいつだって、各々が問を問うところにあったはずだからである。
    (その他)個人的に面白いと思ったのは、生命もテクノロジーも“自己生成する情報システム”であるという見方です。確かにそう捉えることもできるか、という素朴な面白さがありました。ただ、生命は身体をもち、テクノロジーは身体を持ちません。確かに質料(ヒュレー)を持つものもありますが、ではAIをはじめ現代のテクノロジーはどうだろう、と思うのです。同じ自己生成でも、生命はオートポイエーシスなのに、テクノロジーにはどうもそのイメージが持てませんでした。その違いは身体にあるのかどうなのか、時間をかけて考えてみたいテーマです。 また、質問に挙がった発展途上国と未来についての意見も面白いものでした。我々があれこれ思案する未来の話は、発展途上国にとってどのような意味を持つのか、持たないのか。しかしそれも上述した「知能」で「有用か有用でないかの2分法」で考えているからそう思ってしまうものなのか、と色々思考を巡りました。 講義を聴いて、立ち止まりながら自分の問いを深掘ることの楽しさと重要性をますます痛感しました。
  20. なかなかついていくのが大変で考察というより感想のようになってしまったが,講義の前半やDiscordで議論が盛り上がっていた「未来を考える意味」についてここで改めて考えてみたい. まず講義で,今まで呼んできた「未来」とは,特定のグループの人間が思い描いてきた「未来」であり,それを皆で共有してきたとあった.例えば,宇宙開発やAIを中心として構築される未来は,特定の先進国のエリート男性を中心とした「未来」である.だからこそ,世界の全ての人々にとってその「未来」が切実なものであるとは限らない. それにも関わらず未来について自覚的に考える意味を,Discordでの議論を踏まえて整理してみる.自ら未来を描くことに意識的でないと,誰かが思い描いた未来に無自覚に追従してしまうことになるかもしれない.その意味で,未来について自覚的に考えることは未来を予測するということより,すでに思い描かれている特定の未来像に身を置いてしまうことになることに抵抗をする営みである. ここで,一つ問いを設定してみたい.それは,結局誰のための「未来」であるか?ということである.自分のためか?家族・友人などの身の回りの人のためか?それとも子孫のためか?いろいろと考えてみたが,その未来像は小林茂先生の,〈社会的ランドスケープ〉の数ほどあり,それこそが多元的な未来像であるということと理解した. 消化不良を起こしており,まだこの講義のありがたみがわからないが,議論や実践に取り組みながら立ち返りたいと思う.
    (その他)かなり情報が盛りだくさんで再未来化のあたりからついていきづらくなった.
  21. 再未来化で示された対概念のうち、Singularity/Plurality が印象に残った。私はこれまで食品ロスを、主に「どのように減らすか」という問題として考えていた。しかし、講義を経て、食品ロスを減らす未来を一つの最適解に収束させることにも注意が必要だと感じた。何を「余剰」とみなすか、何を「食べられる」と判断するかは、賞味期限や状態だけでなく、所得、家族構成、体調、調理や保存の条件、食文化など多様な要因によって左右される。さらに、災害やパンデミックなど平時の前提が崩れる状況では、通常は余剰とみなされる食品や在庫が、備えや融通可能な資源として別の意味を持つ可能性もある。異なる生活条件の人々が、どのような食の未来を選べるのかも考えたい。
    (その他)講義内容は多層的で展開も速かったため、ライブで内容を理解しながら直後にチームディスカッションへ移る場合、自分の考えを十分に整理して議論に参加することは難しいと感じた。
  22. テクノロジーの未来学 \#1 講義を聞いて、率直に自分の中の「未来」観がまだまだ固いままだったことに気づきました。未来は一つではないし自分以外の人にも見えているし先進国のものだけでもないし直線的とも限らない。今回の講義を通じて凝り固まった未来観をある程度ほぐし、再構成するための補助線を得ることができたと感じています。冒頭松島さんが「なぜ22世紀を想像できないのか」とウィリアム・ギブソンを引用されたときには無条件で藤子不二雄的未来が浮かぶ程度には昭和日本人的未来観が染みついていますが、今後の講義を聞きながらそれを相対化していければなと思います。 と言いつつもいざ相対化を試みるとなると、実感を伴ってそうすることは本当に難しいと感じていて、より具体的なペルソナを想定して議論するのは有効な手段の一つなのではないか、というのが最後の途上国の方々を想定した質問を通じた気づきでもありました。 自分も「未来」を語る時には無意識に現代日本という先進国かつ経済的余裕のある環境に視点を置いてしまいますが、国・ジェンダー・経済力など様々な立場に立ちながら語る視点を持てるようになること、そうした能力をmUプログラムを通じて身につけたいと思いました。 また、AI技術を取り巻く資本主義や政治的な力学の前にそうした多元的な視点を強度を持って維持し、実践していく難しさも感じています。自分の労働環境の中ではAIは確実に日々の業務の形を変えており、その流れは日を追うごとに加速していて、自分の今の仕事は遅かれ早かれAIに置き換えられるという強い予感があります。今の私の視点ではそれをある種必然のように捉えてどう適応していくかという小手先のキャリア論にどうしても落とし込んでしまいますが、本当にその流れは必然なのか、乗るなら乗る、抗うなら抗うなりの相対化ができるようになりたいと、改めて今回の講義を聞いて思いました。 大変示唆に富んだ授業をありがとうございました。今後の講義もとても楽しみです。
    (その他)講義を聞きながらさらに内容の濃いコメント欄を読み込むのはなかなか難しいですね。ついていけるよう頑張ろうと思いました。Zoomのコメントログなどもどこかで閲覧できると嬉しいです。
  23. 「未来は直線上にあり、みんなが同じような未来を目指すものだ」とか「こういう未来がいいよねという場所に全員が集うものだ」と何の疑いもなく思っていました。そうではなく、多様な未来の可能性が同時に存在していて、それらが別に一つに統合されなくてもいいという「多元的な未来観」は、非常に素晴らしいなと感じました。これほど変化が激しく、テクノロジーと地球環境が激変する時代において、強いパワーを持つ側の影響力が拡大していく中、一つの未来像に全員が集約していくのは危ういと感じます。むしろ、多様なチョイスや実践が存在している方がレジリエンスが高く、何が起こっても誰かが生き残っていける。そんな多元的な未来が、可能性の強さつながるように思います。 地域づくりの現場では、少数の人たちが「この地域がこうなったらいいよね」と奮闘しています。人口減少や地域産業の衰退といった大きな流れの中で、「本当にこの地域を守れるのか」「自分たちがしたい暮らしを守れるのか」と疑問や不安を抱えながら活動している世界線があります。その時に私が何の疑いもなく思っていたのは、東京一極集中に対して、いくつかの地域が頑張って分散型社会を作っていくことが、目指すべき大きな未来の流れなのだろうということでした。 しかし一方で、別に一つの未来にすべての人が集う必要はないのだとも思わされました。 Aという地域、Bという地域、そして東京や大阪のような都市部がある中で、それぞれが目指したい未来を小さく実装していく。そして、そこに共感する人たちが集まって中規模なコミュニテイをつくっていく。そうして日本の中にいくつもの未来像(自分たちがやりたい暮らし)が共存している世界は、存在し得るのだと気づきました。それが本当の意味での分散型社会、つまり人が分散しているというだけでなく、その未来像自体も分散しているということも、同じように言えるのかなと思います。 この考え方は、とても勇気づけられます。小さく頑張っていても結局は大きな流れに負けてしまう、ということではなく、小さな未来を自ら用意している人たちがたくさんいる状態の意味や意義を改めて定義するような考え方だからです。 ただ、一方でテーマがテーマなので、どうしてもテクノロジー主導で未来が作られていくような印象も受けました。もちろんテクノロジーが未来に大きな影響を与えるのはその通りだと思うのですが、それだけではなく、社会や自然がどのように未来を形作っていくのかという、人間側・自然側の視点ももう少し深められるといいなとも同時に感じました。 例えばクマのプロジェクト一つとっても、クマが絶滅してしまった地域もあれば、今も共生している地域もあります。文化的な背景も多様で、クマに対して畏怖の念を持っている地域もあれば、そうでない地域、あるいは狩猟に関わる人の多寡もあります。直接関わりのない外部の人たちが「クマを守れ」「絶滅させろ」といった分断された意見を投げかける中で、テクノロジー云々の前に、森と私たちがどういう暮らしを作っていくのかという未来像は、外からの言葉ではなく、そこに暮らし、関わる人たちの「どうしていきたいか」「どう関わる覚悟があるか」という意思から描かれるべきものなのだと感じました。 これは地域の問題に限らず、発達障害や認知症、あるいは海洋ゴミの問題(これは自然に関わるテーマですが)といった社会課題全般にも言えることかもしれません。ソーシャルデザインは、テクノロジーの進化によって生み出されてしまった歪みやイシューをフォローしている側面が非常に強いものだな、というふうに感じたんですけど「小さな未来の実装」や「多元的な未来」を描くとき、これまでのソーシャルデザインは、テクノロジーの歪みに対して絆創膏を貼るような対処療法に留まっていたのかもしれず、人に寄り添い、分かりやすく対処することも大切ですが、もう一歩踏み込んで、社会側としてどう未来を編み上げていくのかを考えていくべきだと感じました。
    (その他)夕飯時に5歳の息子と一緒に見ていたら、寝る前に「ロボットの習い事をしたい」と言われました。前にも一度体験会に行っていて、その時はやめといたんですが、彼の中でも色々と考えることがあったのかな、と思いました。 あと、ノンタンという猫が主人公の昔からある絵本があるんですけど、その中で、他の動物たちは「将来の夢は?」と聞かれたときに一つだけ答えるのに対して、ノンタンは「あれもこれも」といくつも答えて、「ノンタンばっかりずるいよ」と言われるお話があって、確かに私たちは、「夢は一つに絞らないといけない」「一つに決めていかないといけない」という考え方にとらわれていたなと感じます。今の私たちの未来観を作っているものは、そうやって小さい時から身についている、ちょっとした小さなことだったりするのかな、と。小さい頃から、未来は多元的であっていいし、それらは同時に存在するんだ、という考え方を知ってくれるといいなぁ。むずかしいけど。 と、つらつらと書いてしまいましたが、こういうことをここには書けばいいんですかね? アーカイブ視聴で見返しましたが、0歳の夏風邪の看病のお供にもとても良い、学びの深い授業でした。ありがとうございました!
  24. ・VUCA時代に未来予測は不可能という言説がいつの間にか自分の当たりまえとなり、未来について前のめりに考えることを避けてきたと思う ・ただ、松島さんの講義を通して、未来について再考したくなった ・未来は必ずしも一つだけでなく複数ある。さらに、自分の暗黙の見方や価値観ではなく、再未来化の視点を手がかりに、そこから抜け出すことで、新たな未来が立ち上がる。 ・未来構想における自分のアンラーンすら難しい中、周りの人や組織をアンラーンにどう巻き込むといいか、もっと考えたい ・また、複数の未来を想像する際、私個人は楽しい未来とか、より倫理的な未来とか、どんな未来を描きたくなるのか、もっと考えたい
    (その他)情報量はめっちゃ多くついていくの大変でしたが、刺激的で楽しいお話をありがとうございました!
  25. Physical/Virtualについて考えたことして、街を歩いていて、思いがけず自分の感性を刺激する風景に出会い感動した場合に、その感動の源泉はどのようなものかと考えました。Physicalに五感で感じた過去の体験との対比等による感動かと思っていたが、必ずしもそうでない。たとえば、事前にインプットされたSNS等で見かけたVirtualな美しいとされる写真の情報や予備情報に、実際に出会った風景のPhysicalな大容量の情報(風、匂い、湿度、気温など)が加わり統合された結果かもしれない。そのインタラクティブな関係性やPhysical/Virtualの境界線の変化や曖昧化することで、自分の認知が揺れ動いていることに気づきました。
    (その他)現在→未来の流れだけでなく、未来→現在のアプローチもあることは、とても納得しました。「未来が過去を書き換える」の視点で、認知をズラす手法は、思考方法として試してみたいと思いました。
  26. 「鉄の馬」の話が特に印象に残った。新しい対象そのものに可能性がないのではなく、それを見る私たちの側が、すでに持っているカテゴリーによって見える可能性を狭めているのではないかと考えた。 鉄の馬から見えるのは未来の乗り物そのものというより、当時の人々が移動をどのような関係や形式として捉えていたか、なのかもしれない。現在のAIを 助手、教師、社員といった既存の役割によって理解することも同様で、その呼び方はAIの一側面を見やすくする一方で、別の可能性を見えなくしているかもしれない。 ただ、既存のカテゴリーを使わずに未知のものを見ることは、おそらくできないとも思う。私たちは何かを理解するとき、必ず過去の経験や言葉を手がかりにする。そう考えると、問題は「鉄の馬」を想像すること自体ではなく、それが自分たちの見方によって現れた一つの像であることを忘れ、対象そのものだと思ってしまうことにあるのではないか。 さらに、その像に沿って技術を設計し、使い、そこで生まれた行動やデータをもとに次の技術をつくれば、最初は見る側にあった枠組みが、再帰的に対象そのものの形へ入り込んでいく。未来を閉じるとは、複数の選択肢から一つを選ぶことよりも、その手前で、特定の問いや選択肢しか生まれない状態をつくること? 一方で、本当に自分の前提によって見えなくなっているものは、現在の自分には見落としているもの としてすら認識できないのではないかとも感じた。だとすれば、未来を想像する力とは、見えない可能性をすべて発見することではなく、自分の現在の見方が対象そのものではなく、将来変わりうる一つの見方にすぎないことを忘れない力なのかもしれない。 未来を閉じないとは、新しい未来像を増やし続けること以上に、自分の見方そのものが変わりうる余地を閉じないことなのではないかと考えた。
    (その他)今回の講義を聞きながら、未来を開くことと、一つの対象に長く向き合うことは、自分の中ではどこかつながっているように感じた。 私は現在MMGDという有限離散力学系を研究しているが、始めた頃は「数字から線が生まれる仕組み」として見ていたものが、同じ対象に向き合い続ける中で、有限状態、周期、順序、観測といった異なる問題として見えるようになってきた。対象そのものが大きく変わったというより、自分が何を見ているのかが変わってきたのだと思う。 このことから、最近読んでいるユク・ホイの本に出てきた庖丁解牛の話を思い出した。最初は「目に映るものは牛ばかりだった」のに、三年後には「もう牛全体は目に入らなくなった」とされる。この箇所が気になっていて、単に牛をより正確に理解した結果というより、長く対象と関わる中で、「牛」という一つの対象として見ること自体から離れ、対象との関係の仕方が変わっていったのではないかと考えていた。 今回の「鉄の馬」の話を聞いて、この二つが少しつながった。長く一つの対象に向き合うことの意味は、対象についての知識を増やすことだけではなく、自分が最初に与えていた見方が対象そのものではなかったと、何度も気づく時間を持つことにもあるのかもしれない。 AIによって短時間で多くの可能性を広げられる現在だからこそ、自分の見方が対象との関わりの中で変化し、問いそのものが変わっていく時間をどう残せるのかということにも興味を持った。
  27. ゲストの松島氏については、以前よりラジオでお声を聞いていたこともあり、感慨深いものがあった。 まず「未来が現在に影響を与える」というテーゼについて。現実が「損なわれている」のは、現在の未来を律速している人々自身が現実を損なっているからなのか、それとも私たちが未来に対して「悲観的」であるがゆえに現実が損なわれているのか。これは鶏か卵かという議論ではあるが、現在を読み解くうえで欠かせない観点だと感じた。 現在の私たちが「22世紀」を想像できていないという課題感は、私自身も非常に強く共有するものである。数多くの先端分野とされる領域の著名な科学者と話す中で感じてきたのは、あたかも未来をリードするかのような科学の世界においてすら、想像以上に科学者たちが似通った未来像——しかも革新的なものではなく、講義中の表現を借りるなら「20世紀の西側諸国の白人インテリ中年男性の進歩主義的な未来」——を描いているという事実だ。これは科学自体にとってもまずいのではないか、という問題意識を私は持っている。 また、講義にあった「鉄の馬」という概念についても、改めて考える余地の大きい概念だと思った。私が関わってきた「空飛ぶクルマ」というコンセプトは、しばしば「車輪の再発明」であると評される。現在のプロダクトに関して言えば、私もこれに概ね同意する。ヘリコプターと比較すれば、翼面荷重が大きく揚抗比も悪く、速度・航続距離・飛行時間のいずれにおいても劣るモビリティである。 では、何をもって「鉄の馬」と呼ぶべきなのだろうか。バッテリーと電子制御を手に入れた私たちが、それをヘリコプターに載せただけだから「鉄の馬」なのだろうか。それとも、運用において航路を規定し、それに則ったルートを飛行するという、従来の航空機と変わらないフローこそが「鉄の馬」たらしめているのだろうか。あるいは、速度・航続距離・飛行時間という産業的な評価指標そのものが「鉄の馬」を規定する要因なのだろうか(大学での研究では、この最後の仮説を立て、航空機評価軸の多角化を企図していた)。さらに言えば、現在の自動車は果たして「鉄の馬」より優れているのか、ということも問い直す必要がある。 そうした問いかけを、私はせずにはいられなかった。おそらく、そのジャッジそのものに価値はない。しかし、そのように自身の想像を解体する作業は、非常に重要だと思う。 その後、議論は「ではどのように想像するか」という具体論に移り、プロトピアという概念も引用された。私自身、楽観的であることの意義を日々感じている一方で、「よいことが51、悪いことが49」というコンセプトには、長期主義に近づく危うさがあるとも感じている。例えば現状においても、その比率がどこにあるかという判断は、その技術の当事者としてどの程度利益あるいは不利益を被っているかに、非常に強く影響される。ただし、ネガティブ・ケイパビリティとして不利益(49)を常に想定し、その対処を常に用意しておくという意味合いにおいては、私自身の考えと重なる部分もあると感じた。ケヴィン・ケリー自身のニュアンスについては、改めて再確認したい。 松島氏が挙げていた、再未来化にあたっての7つの軸・14のキーワードについては、科学を推進し現場で設計を行う立場からすると、実際にその現場を駆動する判断基準に近いものを感じた。しかし現在、科学を推進する力そのものが、その軸において非常に偏っている。例えば「AIは知能を潤沢にする」という未来の想像は、「AIによって潤沢にしなければならない」という要請を生み出し、それはしばしば計算資源を争奪する帝国主義的な構造を惹起する。画一的な予測、そしてそれに対する無批判な受容は、非常にリスクを伴うものだ。 自らの不足を未来に求め、それを得るための唯一の手段がテクノロジーであるとする思想は、ここまで述べてきたようなリスクにも強く結びつく。今回の講義の最後に引用された「未来はすでにここにある」という前提を、私は大切にしたいと思う。 全体を通して、自らの立ち位置を改めて再認識し、本講義を通じて実際にどのように未来について考えたいかを再確認する機会となった講義だったと感じている。
    (その他)上記にまとめてしまったため、空けさせていただきます。
  28. 講義を聞いていて、「脱未来化」という言葉には最初少し違和感がありました。誰かが語る未来を一度疑うとか、距離を置くということ自体はわかるのですが、人間はそもそも、いろいろな人の意見を聞きながら自分の考えを作ってきたものだと思います。なので、誰かの未来予測に影響されること自体が悪いわけではないんだと思います。 たとえばAIについても、「仕事がなくなる」と言う人もいれば、「むしろ新しい可能性が広がる」と言う人もいます。大事なのは、どちらかをそのまま信じることではなく、自分の実感に照らしながら考えることなのかなと思いました。AIも、根本的な悩みを解決してくれる存在というより、自分の考えを言語化したり、少ししっくりくる形に整えたりする相手として使う方が健全なのではないかと思います。 一方で、自分はもともと物事を少し引いて見るところがあります。誰かが強く未来を語っていても、「本当にそうなのかな」「別の見方もあるのでは」と考えてしまうことが多いです。その意味では、自分は無意識に脱未来化のようなことをしてきたのかもしれません。ただ、その姿勢には弱さもあると感じています。周りが何かに熱狂している時に、自分だけ一歩引いてしまい、そこに入りきれないことがあるからです。成功している人の中には、「こういう未来が来るはずだ」と信じて、そこに強く進んでいく人もいると思います。自分には、そういう信じて進む力ももう少し必要なのかもしれないと思いました。 また、私はミャンマーで活動している中で、途上国の現実についても考えながら聞いていました。ミャンマーでは、場所によっては生活インフラそのものが十分に成り立っていない環境があります。そうした現場にいると、AIによって未来を描くという話は、正直なところ、知識層や都市部の人たちの中での議論のようにも聞こえてしまいます。このあたりが、自分が違和感を持った理由の一つなのかなと思いました。 ただ、その国の現実に当てはめて考えると、未来を描くということは、必ずしもAIのような先端技術だけの話ではないのだと思います。生活インフラが整うこと、インターネットが普及すること、電話を持つ人が増えること、教育や医療にアクセスしやすくなることも、その場所にとっては大きな未来の変化です。そう考えると、そこで暮らす人たちがどのような未来を描くのかを考えることには、意味があるのだと思いました。 「22世紀を想像できない」という問いも印象に残りました。今の社会は、気候変動や格差、戦争、AIによる変化など、未来の世代にかなり多くの負担を残しているように感じます。その意味では、私たちが未来を前向きに描きにくくなっているのは自然なことなのかもしれません。 一方で、私はかなり大きな時間軸で物事を考えることがあります。人間が地球上で生きている時間は、地球の歴史全体から見れば本当にわずかなものです。そう考えると、私たちの生命活動や文明を、必ず続けなければならないものとして考えすぎるのも、少し不思議なことなのかなと思います。 だからこそ、未来を考えるというのは、ただ明るい未来を描くことではないんだと思います。前向きに描くことが難しい時代の中で、そしていつか変化し、消滅していくかもしれない世界の中で、それでも自分はどう生きるのか、何に関わっていくのかを考えることなのだと思いました。特に自分にとっては、ミャンマーのような現場で、そこにいる人たちがどんな未来を描けるのか、そのために自分たちが何を考え、何に関わっていくのかを問い続けることが大切なのだと思います。
    (その他)特にありませんが、資料を事前にいただけると助かること、このテーマにみんなで議論したい気持ちが強くあります。
  29. 今回の講義を受けて、これからの学校教育について強く考えさせられた。現在は、生成AIを授業で活用する場面はまだ多くなく、多くの子どもや大人にとっても「AIはすごい技術」という認識がある。しかし、講義を聞きながら、近い将来にはAIは電気やインターネットのように当たり前の存在となり、「AIを使う」ということ自体を意識しなくなるのではないかと感じた。そのような時代に、学校は何を学ぶ場所になるのだろうかという問いが、自分の中に生まれた。 これまで私は、技術をどのように授業へ取り入れるかを考えることが多かった。しかし、AIが当たり前になる時代には、技術の使い方を教えるだけでは十分ではない。子どもたちが「どのような社会をつくりたいのか」「どのような課題に向き合うべきなのか」を考え、その実現のためにテクノロジーを活用する力を育てることこそが、学校教育の役割になるのではないかと感じた。この問いはまだ自分の中でも答えが出ていないが、この講座を通して考え続けていきたいテーマである。
    (その他)もう一つ印象に残ったのは、「未来を予測する」のではなく、「望ましい未来を考える」という視点です。企業や行政の将来のプロジェクトや学校の先生の語る、「未来」の大半は過去の投影である「Projected Future」に収まるが、問うべきは「Preferable(望ましい)未来というのが、なるほどと思いました。 学校教育では、これまで社会の変化を学んだり、将来を予測したりする機会はあっても、「自分たちはどのような未来を実現したいのか」を考える学習は決して多くないように感じます。(そもそも先生がそういうことが得意でない、そういう教育を受けてきていない...)また、教師自身も中立性を意識するあまり、望ましい未来について話し合うことを避ける空気があるようにも感じている。(進路指導なども手堅く行きがち...) しかし、この講義を通して、「望ましい未来」を考えることは、教師が(あるべき姿?としての)正解を示すことではなく、一人ひとりが自分なりの未来像を描くことが重要何だと気づかされました。そして、その未来像があるからこそ、「どのような課題を解決したいのか」「そのためにテクノロジーをどう活用するのか」という問いが生まれるのだと思いました。 この視点は、私が目指している技術教育とも深く重なるので、これからは、技術を学ぶだけでなく、子どもたちが自ら望ましい未来を構想し、その実現に向けて課題を見つけ、テクノロジーを用いて挑戦する学びを、これまで以上に大切にしていきたいです。
  30. 1.講義の自分なりの理解  今回の講義を、脱未来化→再未来化→そこにコミットし続ける、という三段構えとして捉えた。  脱未来化の段階では、「自分の未来像は過去の投影かもしれない」という疑いを常に持ち続ける。そして、その疑いを心がけで終わらせず、実践に落とすことが重要である。たとえば、未来の円錐で自分の未来像がProjected Future(過去の延長)に収まっていないかを点検する、SFプロトタイピングでマイノリティや動物といった別の視点から未来をリハーサルする、などである。  再未来化の段階では、7つの軸をレンズに、AI以後の社会の底流にあるパラダイム転換を読み、各々が複数形の未来を立ち上げる。7つの軸とは、「希少さ/潤沢さ」「実験科学/計算科学」「フィジカル/バーチャル」「シンギュラリティ/プルラリティ」「サイバネティック/ポエティック」「エントロピー/エクストロピー」「ジェネラティブ/リジェネラティブ」の7つの対概念であり、株価を動かす表層のニュースではなく、5年〜30年の底流にあるパラダイム転換を掴むためのものである。軸がペアになっているのは、「AかBか」の二者択一ではなく、「A(20世紀的な前提)からB(新しい底流)への移行のグラデーションの中に、いま自分たちがいる」と捉えるためである。たとえば「希少さ/潤沢さ」の軸であれば、希少性を前提とした経済・社会の仕組みが崩れつつある中で、「次に希少になるものは何か」を各々の立場で問うことになる。  最後の、コミットし続ける段階では、「戦う楽観主義」がキーワードになる。途上国の現場で課題に向き合う人こそ未来を作っている、という講義での応答が示すように、気持ちよくなくても現実の課題に関わり続けることが鍵となる。 2.自分が着目したところ──現代社会での再未来化の実践  印象に残った発言として、「電気をつけていることをわざわざ意識しないのと同じように、近い将来『今AI使ってんだよね』とは誰も思わない社会がすぐにやってくる」を取り上げたい。  私はシステムエンジニアであり、「AIネイティブエンジニア」になることを目指している。AIを「活用する」にとどまらず、AIを前提として業務を組み立てる。AIに任せられるところはどんどん任せ、人間が判断しなければならないところも、AIが判断できる形に整えて自分のタスクから切り出していく。皆がこのようにAIネイティブになっていけば、AIは人間社会に溶け込み、人々はAIを使っていることに何の驚きも感じなくなる──まさに冒頭の発言の通りの社会である。  では、その社会でAIもまた生命のように情報の自己組織化を行うとしたら、人間とAIは何が違うのだろうか。知能はAIによって潤沢になり、AIが意識をもつ可能性を論じる研究も現れている。人間に残されたものは何なのだろうか。  現段階での私見では、それは「人間の幸せを向上させる方向にAIを制御・統制すること」だと考える。たとえば、法整備によってAIの使われ方を規制すること。また、AIセキュリティやAIオブザーバビリティといった分野が注目されているように、AIエージェントが望ましくない挙動をしないよう制御・監視すること。「人間中心主義」という言葉があるように、AIは人間を幸せにするツールでなければならない。軍事転用されて戦争で大量の人を殺し、兵士やその家族を不幸にするものであってはならないし、人間の意図しない挙動によって重要なデータが漏洩するようなことがあってもならない。ただし、この考えは講義で批判的に紹介された西洋の「マスター/スレーブ観」に近い立場かもしれない、という自覚もある。制御・統制ではなく、信頼や共生という枠組みで人間とAIの関係を捉え直すことはできるのか──この緊張は自分の中でまだ解けていない。  以上、自分なりに再未来化を試みたが、今回の考察で思考を終わらせるつもりはない。いま抱えているこの問いも含めて、今後の講義を通じて思考をアップデートし、7つの軸をレンズに再未来化を繰り返していきたい。
    (その他)感想フォーム提出した人へのフィードバックがあればうれしいです。
  31. \- 講義冒頭で、日本人は未来に対して悲観的である、というデータが示され「それが課題である」と示された。なるほど、そうなのか、と受け止めて、講義終了後につらつらと考えていたが、仏教的な世界観では、そうした悲観的な未来の受け止め方は推奨される態度なのではないか、と思った。世の中はすべて諸行無常で移り変わりゆくので、そうしたものに心惑わされず、いまここにこそ集中すべきである、という考え方。 \- 講義後半で、長谷川愛さんがブラックスワンに言及されていたが、ポジティブに未来を構築しようとする態度は実はブラックスワンに脆弱で、悲観的で、いまここ性に注目しがちな価値観はむしろ、破壊的な変化の後に強さを発揮するのではないか、と思った。こうして考えてみると、実は未来に積極的に関与して構築しようという態度そのものが実は西洋的価値観のようにも思えてきて、多元的な知ってなんなんだろう、というモヤモヤが生まれた。 講義そのものの感想。情報量が多く、刺激的。ただ、逆に全体を通して概観するような視点が生まれにくいようにも感じた。書籍の紹介が多かったが、それらが今回の講義のテーマとどう結びつくのか、の咀嚼が必要で、講義の全体スケジュールなどを踏まえてもなかなかハードルが高いような印象。
    (その他)\- 講義途中のチャットは若干参加の仕方にハードルを感じた。七沢さんもチャットに参加されていて議論を観るのは面白かったが、議論がパラレルに始まっている感もあり、チャットが質問の場というよりは、感想戦と議論という感じで、何を言おうかちょっと悩ましかった。いいこと言いたいという自分の欲みたいなものもちょっと感じるので、聞いて、後で考える、ようにしよう、と思った。 \- 講義のチャットでの質問は、いいね数で判断というよりは、講師が選んでくれた方が嬉しいと感じた。Slidoを使って質問をいいねでフィルターするセミナーなどに参加することがあるが、個人的に鋭い質問や疑義を示したものが選ばれず、「別にそれをいま聞かなくても」というものが選ばれることも多い印象。初回の松島さんの講義では、面白いものが選ばれていたが、今後は講師が面白いと思ったものを選んでくれた方が個人的には面白そうだと感じた。
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