AI & SOCIETY Ⅰ ・ LECTURE 1

AIと社会:今問われるべきテーマ

まとめレポート(AIと社会Ⅰ 第1講)

科目
AIと社会Ⅰ(makers Unlearn 2026)
講師
茂木健一郎(ソニーCSL シニアリサーチャー/脳科学者)/佐倉統(実践女子大学教授/東京大学名誉教授)
モデレーター
七沢智樹
開催
2026年7月25日(土)

OVERVIEW概要

第1講は、AIを「単なる技術ではなく、技術を超えた社会的・宗教的背景を持つ何か」として捉え直す一日の導入として、脳科学者・茂木健一郎と、科学技術社会論の佐倉統という二人の論客が、それぞれの立場からAIの現在地と日本の可能性を語った回である。「AIをどう作るか」ではなく「AIをどう捉え、どう生かすか」を問うという本シリーズの構えが、最初の90分で鮮やかに示された。

茂木は資料を一切用いない「イーロン・マスク方式」のオーラルで登壇し、投資規模がAIの賢さを決めるスケール仮説のもとでは、研究費に乏しい日本がファウンデーションモデルで米中に対抗する見込みはほぼないと厳しく認めた。そのうえで、脳が持つノイズ、細胞内のレイノルズ数の低さ、身体性(エンボディード・コグニション)という原理から現行AIの限界を突き、シンギュラリティ論やシミュレーション仮説を「身体性と計算的自由のトレードオフを見落としたもの」と批判する。結論として茂木が最も伝えたかったのは、AIカンパニーを電気やガスのようなユーティリティ企業と見立て、それを「どう生かすか」で勝負する「コンビニモデル」という日本の勝機だった。

続く佐倉は、茂木の身体性への着目に強く共鳴しつつ、技術の社会的形成、ロボットを敵と見る西洋的言説の系譜、そして「AIは鏡」という視点を軸に、日本と西洋のロボット観・自然観・霊長類研究の構図の違いを、神話・からくり人形・浮世絵・霊長類学の写真構図といった豊富な事例で描き出した。その拠り所は、私たちの日常=生活世界(フッサール)にあり、日本の衣食住の質の高さにこそ突破口があるという。両者は身体性を軽視する現在のAI観への違和感で深く一致し、質疑では日本が東洋的な世界観を積極的に打ち出す意義が論じられた。なお茂木は品川区での講演のため途中退出している。

タイムスタンプは配信用に編集した動画(冒頭の打ち合わせをカット済み)の再生位置です。

CONTENT内容

1. 導入:AIと社会シリーズと本日の狙い0:00:00–0:03:53

七沢智樹が開講し、「AIと社会」は第1〜3のシリーズであること、AIを単なる技術ではなく技術を超えた何かとして捉え、その社会的・宗教的背景を掘り下げる講座であることを説明した。第2講(テクノロジーの未来学、人工生命・AIエージェント)、第3講(AIと倫理、1月開催)の見取り図が示される。続いて茂木を紹介し、AIの世界ではイーロン・マスクやダリオ・アモデイのように資料を使わず口頭で語るのがデファクトになっていること――進化が激しくコンセプトこそが最重要で、スライドに固定すると良い結果にならないこと――が前置きされた。

2. 茂木パート①:スケール仮説と日本の劣勢、脳のノイズと意識0:03:53–0:13:00

茂木は、脳科学に進んだ原点がペンローズ『皇帝の新しい心』であったことから語り出し、AI研究者が単純化した脳モデルに傲慢になっている現状を批判する。現在のAIを支配するスケール仮説(スケーリング・ハイポセシス)――投資規模、すなわちデータセンターの大きさがAIの賢さを決めるという考え――を解説し、その帰結として日本の劣勢を直視した。だがスケール仮説は、裏を返せば「大したアイデアや理論のイノベーションはない」ことの証でもある。茂木が脳とAIの決定的な違いとして挙げたのが「ノイズ」である。

「日本のように研究費が足りず経済的にも落ち目で、スケールするものが作れない国には、ファウンデーションモデルでアメリカや中国に対抗する見込みはほぼない。」— 茂木健一郎(0:07:48)
「脳がAIと比べて極めて違う特徴は、ノイズに満ちているということ。ノイズのない計算をやっているAIの先に、人間型の意識はないだろうというのが僕の直感です。」— 茂木健一郎(0:09:57)

今後のボトルネックは計算資源ではなくデータの不足であり、そこにこそ日本が貢献できる余地があるかもしれない、と茂木は付け加えた。

口頭で語る茂木健一郎
0:03:53資料を用いず口頭で語る茂木。「イーロン・マスク方式」を掲げ、スライドなしで一気に本質へ切り込んだ。

3. 茂木パート②:フィジカルAIと身体性、レイノルズ数、シンギュラリティ批判0:13:00–0:24:00

本日最も議論したいテーマとして、茂木はフィジカルAIを掲げた。生成AIと身体性(エンボディード・コグニション)の本質的な違いは、ロボティクスや認知科学の中でも決着がついておらず「雰囲気で語られているだけ」だと断じる。自身の博士論文が筋収縮の数学的モデルであったことに触れ、細胞内はレイノルズ数が低い――粘性抵抗が高くノイズが大きく、記憶がすぐ失われる――世界であり、メモリが永続するチューリングマシン的な論理はそこでは通用しないと説明した。この観点から、カーツワイルのシンギュラリティ論やボストロム/チャーマーズのシミュレーション仮説を、身体性と計算的自由のトレードオフを見落としたものとして批判する。

「我々が生きている世界、特に細胞の中はレイノルズ数が低い。GPUのようにノイズがない前提の論理はそこでは使えない。カーツワイルはそこに全く気づいていない。」— 茂木健一郎(0:19:58)
自筆ノートを掲げる茂木健一郎
0:19:10「low Reynolds number(低レイノルズ数)」と書いた自筆ノートを掲げる茂木。身体のスケールで効く物理法則が変わることを、AIの身体性の議論へ接続する。

4. 茂木パート③:知能と経済価値の乖離、日本のメディア批判0:24:00–0:29:50

茂木は「IQと収入には非常に弱い相関しかない」というグラフを引き、賢さと経済的効果は基本的に相関しないと指摘する。数学に没頭するあまりローマ兵に殺されたアルキメデスの逸話を、賢さ(知識)と実社会での知恵の乖離の象徴として語り、この点を考えなければフィジカルAIは成功しないと述べた。あわせて、日本のAI関連コンテンツやNHKの報道、「AI驚き屋」的な文化、過剰な編集・啓蒙のスタンスを痛烈に批判し、海外の一次的な対話(ポッドキャスト等)を直接見るよう促した。

「IQと収入には非常に弱い相関しかない。賢さと経済的効果には基本的に相関がない。ここをちゃんと考えないとフィジカルAIは成功しない。」— 茂木健一郎(0:24:14)

5. 茂木パート④:コンビニモデル=日本の勝利シナリオ0:29:50–0:34:52

茂木が最も伝えたい「素晴らしいシナリオ」として提示したのが、AIカンパニーを東京電力・東京ガスのようなユーティリティ企業と見立てる視点である。最先端のファウンデーションモデルは、電気やガスのように我々のもとに届く。だが、それをどう生かすかは使う側の知恵に依存し、コンテンツ化・ローカライズ(ジブリ風生成、電車男など)は日本の得意分野だ。セブンイレブンがアメリカで生まれながら日本で完成し、ついには本社を買収した歴史になぞらえて、茂木は日本の希望を「コンビニモデル」と名づけた。

「AIカンパニーは東京電力や東京ガスに似ている。彼らのAIが電気やガスのように来たとき、それをどう生かすかは我々のやり方であり、日本はそれが得意な可能性が高い。」— 茂木健一郎(0:30:44)
「セブンイレブンをアメリカで生んだが完成させたのは日本だったように、2040年にアンソロピックやオープンAIを我々日本が買収することもあり得るのではないか。」— 茂木健一郎(0:33:36)

6. 茂木パート⑤:質疑と七沢との対話、退出0:34:52–0:44:13

チャットに寄せられたフィジカルAIに関する質問に応答したのち、モデレーター七沢との対話に移る。AIが「測って計算してアウトプットする」という産業革命以来の技術の精緻化の延長にあること、身体性や生命には依然として分からないままの領域があること、自然言語が世界モデルとして数式より優れている可能性、そしてIITやグローバルワークスペースといった現行の意識理論への不満などが語られた。意識研究財団のカンファレンス(10月24・25日、オンライン参加可)が案内され、CopilotやOpusをめぐる雑談ののち、茂木は品川区での講演のため途中退出した。

7. 佐倉パート①:導入と技術の社会的形成0:44:13–0:51:31

佐倉統は、茂木の「レイノルズ数が低い世界での身体性」への強い共感から語り始めた。生物は40億年をかけてまず身体を作り、知能はそのごく一部にすぎないのに、現在のAIは知能のロジックばかりを追い、身体へのリスペクトを欠く――。自身が霊長類(サルの生態学、ギニアでのチンパンジー研究)出身であり、原点がホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』にあることを紹介し、そのホフスタッターすらAIの無反省な発展に懸念を示していた(2019年)ことに触れる。本講の三つの論点(社会と技術の関係/ロボットは敵か味方か/ロボットAIと文化)を提示したうえで、技術は発明者の意図とは違う形で使われ広がるという「技術の社会的形成」を、電話・ラジオ・カメラ付き携帯(写メ)の例で説いた。

「生物は40億年かけて進化し、まず身体ができて、人間の知能なんてごくわずか。今のAIは知能のロジックばかりを実現しようとして、身体に対するリスペクトがない。」— 佐倉統(0:45:02)
「新しい技術ができるとき、発明者や専門家が考えているのとは違う形で使われて世の中に広がっていく。これを技術の社会的形成という。」— 佐倉統(0:50:00)

8. 佐倉パート②:ロボット=敵という西洋的言説0:51:31–0:56:38

カーツワイル(機械は一貫して最高の状態で働くという主張)、ボストロム、パスカル(人間は考える葦)、ハラリ『ホモ・デウス』を引きながら、佐倉は、西洋には「フィジカルでは劣るが頭脳で勝る」というロゴス中心・身体軽視の言説が根強いと批判する。元チンパンジー研究者の立場からは、人間はむしろ持久力に富む頑健で強い生き物だと反論できる。フランケンシュタイン以来の「自作物に滅ぼされる恐怖」を背景に、人間対AIという対立図式や機械論的な知能観が広がってきた。パラメータ数を人間の言語獲得と比べれば桁が大きく異なり、量的にスケールしても人間のようにはならないが、逆に支配されるわけでもない――だからこそ得意分野を分担するモデルを、と佐倉は提案した。

9. 佐倉パート③:人工物の歴史とフランケンシュタイン・コンプレックス0:56:38–1:09:37

人類が古来ロボット的な人工物を作り続けてきた歴史を、佐倉は縦横に概観する。ホメロス『イリアス』のヘパイストス、キプロスのピグマリオン(バーナード・ショーの戯曲、映画『マイ・フェア・レディ』へと連なる)、中国『列子』の周の穆王とからくり人形、スイスのジャケ・ドローの自動人形(オートマタ)、細川半蔵『機巧図彙』のお茶運び人形。一方でチャペックのロボット、ルディ・ラッカー『ソフトウェア』、アシモフのロボット三原則を挙げ、アシモフが名づけた「フランケンシュタイン・コンプレックス(新技術への根源的な恐怖)」を、幕末の写真=魂を吸われる俗信、ステレオ再生への批判、消しゴム付き鉛筆のイギリスでの使用禁止といった例で説いた。締めくくりに引かれたのは、ダグラス・アダムズの警句――生まれた時に既にあるものは正常、30歳以降に発明されたものは自然の秩序に反すると感じてしまう(テクノロジカル・インプリンティング)――である。

10. 佐倉パート④:AIは鏡、ロボット観の日米比較と共同注視1:09:37–1:21:47

茂木のユーティリティ論に呼応し、佐倉は、普及した技術はやがて「AI」と呼ばれなくなる(ATOKの日本語変換がもはやAIと呼ばれないように)と指摘する。そのうえで示されたのが「AIは鏡」という視点だ。ロボットと文化の研究がほぼ日米比較に偏っている現状を批判し、より広い枠組み――社会や自然環境の特性――で見る必要を提起する。石黒浩のジェミノイドの写真や、日本語/英語検索によるロボットと人の構図の違い(日本=同じ方向を向く、西洋=向き合う)を定量的に示し、北山修の「共同注視(ジョイント・アテンション)」「第三項」論と、母子が同じ対象を見る浮世絵の構図を援用した。

「AIは鏡なんじゃないか。人は自分がそこに見たいものを見る。AIをどう思うかは、結局自分自身を反映している。」— 佐倉統(1:11:52)
「日本ではロボットやAIを、第三項を共有できる自立した仲間として最初から捉える感覚がある。西洋は優劣が定まっておらず、強くなってくると歯止めが効かなくなる。」— 佐倉統(1:20:15)
佐倉が石黒浩のジェミノイドや写真構図の違いを示す場面
1:14:18社会ロボティクス研究のサンプルが日本とアメリカに偏っていることを示すスライド。文化的背景の違いが研究に映り込む。
佐倉が浮世絵の共同注視を示す場面
1:18:22浮世絵に見る共同注視(第三項)から、日本のロボット観を読み解く。

11. 佐倉パート⑤:自然観・霊長類学・テクノアニミズム・生活世界1:21:47–1:33:25

この日米差の背後には自然観がある、と佐倉は踏み込む。日本・東アジアは森林(人に優しい調和的な自然、人は自然の一部=道教、ダーウィン受容の容易さ)、ユダヤ・キリスト・イスラム教は砂漠(人と対峙する自然)という対比だ。霊長類学者と動物の写真構図の違い――ジェーン・グドールやパタソンは向き合い、山極寿一・三戸サツヱ・松沢哲郎は群れに入って同じ方向を見る――を、人—ロボット関係と人—猿関係のパラレルとして提示する。さらにアン・アリソンの「テクノアニミズム」、付喪神、実験動物供養・人形供養・ロボット供養などを挙げ、日本の人工物観を裏づけた。結論はこうだ。AIが人をどうするかではなく、私たちがAIでどんな社会を実現したいのか。その拠り所は、日常生活=生活世界(フッサール)にある。

「ロボットやAIが人をどうするかではなく、私たちがロボットやAIでどんな社会を実現したいのか、その目的・価値のほうが大事だ。」— 佐倉統(1:30:02)

家事労働を代替するロボットの難しさに触れつつ、佐倉は、ファッション、無印、建築のプリツカー賞、新幹線清掃といった日本の衣食住のレベルの高さにこそ突破口があるとまとめた。

佐倉が自然観(森林と砂漠)の対比を語る場面
1:24:40森林と砂漠という自然観の対比から、ロボット観の違いを説く。

12. 質疑・対話1:33:25–1:42:44

七沢が「日本的な世界観を積極的に投影していくべきか」と問うと、佐倉は、スケールでの正面勝負は不可能だからこそ、技術単体ではなく社会全体のどこに強みがあるかで打ち出すべきだと応じた。茂木のユーティリティ論と佐倉の生活世界論が、AIがインフラ化した後の「使い方」でこそ日本に住む人の役割がある、という一点で結ばれることを七沢が整理する。

「AIがインフラ化して電気のようになった後、それをどう使うか。生活のために使うのが人間である限り、そこに日本に住む人たちの役割がある。」— 七沢智樹(1:35:27)

チャットのコメント(ユーティリティ論への共感、攻殻機動隊と東西の死生観)を取り上げつつ、佐倉は中国出身の技術哲学者ユク・ホイ(許煜)にも言及。山梨の縫製・ジュエリーといった職人産業とAIの組み合わせの可能性、「芋洗い猿」の文化的行動を日本の研究者が(西洋のタブーの外にいたからこそ)発見できた逸話、そして日本以外の東アジア研究が難しい理由などを論じて、第1講は締めくくられた。

CONCLUSIONまとめ

第1講は、脳科学と科学技術社会論という異なる入口から、「AIをどう作るか」ではなく「AIをどう捉え、どう生かすか」を問い直す時間となった。茂木はスケール仮説がもたらす日本の劣勢を直視しつつ、脳のノイズ・レイノルズ数・身体性という原理から現行AIの限界を示し、AIをユーティリティと見立てて「使う側」で勝負する日本の勝機(コンビニモデル)を描いた。佐倉は、ロボットを敵と見る西洋的言説の系譜と「AIは鏡」という視点から、日本と西洋のロボット観・自然観・霊長類研究の構図の違いを跡づけ、その拠り所を日常生活=生活世界に求めた。

二人は、身体性を軽視する現在のAI観への違和感で深く共鳴し、日本の文化的資産と生活世界の質の高さにこそ独自の可能性があるという展望で一致した。次講以降のキリスト教とAI、東西の思想差の議論へとつながる、思想的な土台を据える回であった。

CHATチャット付録

受講者チャットから主な論点を匿名で要約したものです。氏名・所属は伏せています。